「笑え」といわれて泣きながら作った笑顔で撮られたあの日の写真はどうなったんでしょうね。
その写真を撮影されている間、私はどういう感情でいたのだろうか。
それを思い出そうと思っても、どうしても思い出せないのだ。
「写真撮影をします。モデルはあなたです」
「今日は授業の予定を変更して、自習の時間にします。本を読んだり他の授業の復習などを各自でするように」
私が小学6年生のある日、教室に入ってきた担任の先生がそう言うと、クラスじゅうにワッと声が上がった。みんな勉強せずに遊ぶ気満々である。
自習と言われても、何をしたらいいか悩んでしまうタイプの私は少し固まってしまっていた気がする。
でもほとんど間をあけず、自習をつげた先生が大きなカメラを持ってニコニコしながらこういうのだ。
「先生はこの時間を使って写真撮影をしたいと思います。モデルは…」
「阿智さん、ちょっといいですか?一緒に来てください」
「モデル」として呼ばれたのは私だった。
クラスメイトの男子の「あっ!いいなあ!ずるい!」という声が聞こえた。
私は「いいなあ」と言われたせいで嬉しいことのような気がして、「モデルってどういうことだろう?」と疑問に思いながらも少し照れながら先生のあとをついていった。
先生と私が廊下に出ると、クラスメイトたちは自習もせずに私たちの様子を見に廊下へ顔をだす。
先生は廊下に出たところで私の方を振りかえって、
「じゃあ阿智さん、ロッカーを開けてもらえるかな?」
という。私はその一言で全てを悟って血の気が引いてしまった。変な汗がでる。動けない。
「どうしたの? 阿智さんのロッカーを開けて見せて。中身を全部出して」
動けないままだ。
給食を食べきれない小学生だった私がロッカーにしまっていたもの
私は正直なところ、勉強も運動も得意じゃない上にかなり問題児で厄介な子どもだったと思う。
小学五年生からクラスの担任だった先生にはとても嫌われていて、私が確実に悪いことだけでなく、全く悪くないことでもよく叱られて体罰をうけていた。
私はクラスで一番体が小さく運動もできず、給食はいつも食べ切るのに時間がかかっていた。
給食を食べ終わらない場合は休み時間もなくなり、次の授業になったり掃除の時間になってもそのまま「最後まで」食べなくてはいけないという決まりだった。好き嫌いはほとんどなくて助かっていたが、量が多いと食べられないため時間をかけてなんとか最後まで食べていた。
そうすると「早く終わらせたい」と思ってしまう。給食を残すことは禁止されていたけど、パンは固形で残しやすい形状だった。本当はパンも残してはいけないのだが、残すとしたらパンだ。
たまにはパンに食べきれないおかずを挟んで残すこともあった。
残したパンは家に持って帰っても叱られてしまうので、こっそり畑の隅に埋めたり、時には川に放り投げたり……(これは罪悪感がひどくてそんなに何度も出来なかった)毎日とにかく隠蔽に工夫が必要であり、子ども心に日々苦悩していた。
全部食べきれれば何にも問題ないのに。給食の時間は苦痛だった。
給食のおかずと牛乳とパンと汁物を食べる順番が違うという理由でもよく担任の先生に叩かれ・怒鳴られていた。常に見張られながら、何か失敗していたら指摘して体罰を加えようとする人の前で美味しくご飯を食べることができるだろうか?
先生のみていない隙を狙って私はこっそりパンを残した。
取り急ぎ隠さなくてはいけないので、机の引き出しへ。
たまには引き出しに入れたことも忘れてしまう。引き出しの奥に乾いたパンが入っていることも日常だった。
ロッカーの中身を出す。みんなが見ている前で
さて、あの写真の日に戻ろう。
「阿智さんのロッカーの中身を出して」と言われた私が動けなくなってた理由はもうわかってもらえると思うが、つまり私はそこに残したパンを溜め込んでいたのだ。
どういう感情だったかわからないが、この期に及んでも私は隠していたくて、ただ動けず震えて涙を流していた。
先生は
「泣いたってしょうがないでしょ。先生わかってるんだよ、鼻がいいからね。このへんなんだか臭うんだよね、何を入れているのか先生に見せなさい」
とニヤニヤしている。完全に先生はもう中に何が入ってるのか知ってるし、鍵だってかかってないのだからもうすでに一度は開けてみたりしていそうだ。
クラスメイトは異様な雰囲気に気づいてどんどん廊下に集まってくる。
みんなが見ている中で?このロッカーを開けるの?
私は泣きながらロッカーの中身を出した。
「その袋の中身も全部出して」
これ以上はもう出したくないと思いながら、ナップザックに詰め込んだパンも全部出した。どれだけの期間溜め込んでいたかは流石に覚えていないが、とにかく大量にあって処分の仕方ももうわからず、私にもどうしようもなくなるほどだったのだ。
「きったね……」
誰かの声が聞こえた。
私は自分でも触るのが嫌なほどにカビたり腐ったりしたパンを全部山のように積んで廊下に出した。
ロッカーの中身がからっぽになったのをみて、先生は
「じゃあそれを並べて、阿智さんはその後ろに座って。それで写真を撮ろう」
という。多分嫌だと拒否したとおもうけど、やれと言われて私はそのパンを廊下に並べた。
なんだこの写真? なんで撮影されているの?
パンの後ろに私が正座すると、先生は写真を撮り始めた。
写真は先生の趣味で、高そうな大きなレンズのついたカメラでよく校舎の写真などを撮影していた。当時まだデジタルカメラはなかった頃なのでフィルムカメラだ。
何枚も何枚もいろんな角度や距離からシャッターをきる先生の様子を視界の端っこにうつしながら、私は顔を伏せていた。涙はずっと止まらなかった。
「笑って!!」
先生が言う。
「写真には笑って写りましょうよ。阿智さん笑って。笑わないと撮り終わらないよ」
私は確か笑顔をつくれたと思う。
笑顔で涙を流して、カビたパンを並べてその真ん中に座ってる小学生?
なんだその写真?
先生は満足したのか、
「それ片づけといて。ロッカーに戻さないで、捨てなさい」
と言ってどこかへ行ってしまった。
私は声も出ずその場で呆然として泣いていたが、
数少ない友人が「あっちゃん、片付けよう。私片付けるね。」と言いながらカビたパンを拾って袋へ詰め始めてくれた。
汚ねえ、とか言いながら見ていたクラスメイトももう誰も騒がない。
よく覚えてないけど、友達が全部パンを拾ってくれたんじゃないかな……私は何かできたような記憶がない。
私はその日のことをどう思っていたのか。
この事件のこと、あとで誰かから言われたこともないし、先生が写真について言及したこともない。結局どういう写真になったのか見ていないので私も知らない。
私はこういうことは親に報告しないので親も知らない。
では何も問題はないのではないか?
しかし実際に、私はそこから20年ぐらいの間その写真をとられた事実を忘れることができなかった。
何かいいことがあった時、
これから人前に出ようと考える時、
頑張っている時、好きな人ができた時、
最高にいい瞬間であの写真がでてきて、先生があの写真を持ってきて、それをみられたら私は地に落ちるんじゃないか? 幸福がやってくるたびにその写真の日のことが頭によぎった。
今…今現在の私はもう「そんな写真が出てきたからなんだというのだ」というふうに考えることができるし、「その写真、みてみたいな」とすら思う。
でもあの子どもの頃に受けた「圧倒的な訳のわからなさ」は「何か意味があるんじゃないか」と意味を探ってしまう力があったし、先生のニヤニヤした顔、弱みを握られたような思い、周囲の友人たちが私の一番隠しておきたかったことを知ってしまった怖さと恥ずかしさ、全てが入り混じって振り切ったような黒さというか闇というか…
近いのは「絶望」という状態
なぜこんなことを今書いているかといえば、最近「あなたの一番つらかったことを思い出して、その時の感情を書き出し、相手になり切って相手の気持ちを考えて対話してみよう!」という課題を出されたからだ。
あれから長い時間が経っても、私の記憶の中でとてもつらい思い出になっているし、引きずった年月の長さから「パッと思い出せるつらい出来事」と言えばそれなのだ。
はずかしかった? 怖かった? 憎かった? 怒った? 悲しかった? どれも違うような気がする……どう思い出してみても「自分のその時の感情」も掴めないし、相手がどういう気持ちだったのかも全くわからないし、私に何を期待したり求めたりしてあんな写真を撮影したのかがわからない。一番近い言葉で言えば「子どもなりの狭い世界での絶望」であり、こんなものを質問者は想定できているのだろうか?
どんなに今の私が頑張って小学生の「あの日のわたし」に問いかけても、無表情で、言葉を持たず、私のほうを見て呆然とするだけのこどもがそこにいる。
「わからなかったねえ」
「わかんないよ」
「どうしたかった?」
「どうもしたくない、なければよかっただけ、消したいし消えたい」
「消えたいね。どうもしたくないね。」
私はこどものわたしにただただ共感を与えることしかできない。
理由と因果だけがある世界の側から見たら私の話は気持ちの悪い話に感じるだろう。だから私はこの話をいままで誰にもしたことがなかった。理由も因果も相手の気持ちの解説も分析も欲しくない。この件をこんなにきちんとまとめたのは初めてだ。まとめることで自分の感情がわかるかもしれないという期待もあった。でも本当に、なんだかわからないことってあるんだよ。それを思い出すだけだった。
パンを残してため込んで腐らせていた、それはいけないことなので怒られる・いつか処分しなくてはいけなかったことはすなおに「わかる」。でもそれらといっしょに写真を撮られる意味や状況は「わからない」。捨てろとは言われたけど怒られなかった。先生は写真を撮影した後は戻ってこなかった。ちゃんと捨てたのか確認もされなかった。ただ友人がそばにいてくれこと、それは、それだけは私の心に救いとして残っている。
(後日の話。)
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