エビフライは衣次第〜36OKANO、私のお守り〜
5/30 朝さっむいし何書くか決めてない。
5/30 気付いたら震災の話。閲覧注意。
9/21 Numberを見て書き直し。
9/29 なんとなく公開。
※交流戦期間中に書き始めたものです。話の本筋とはさほど関係ないのであえてそのまま公開しました。
おはようございます、えーすです。
交流戦真っ只中、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は文筆業、作曲業共に絶賛おスランプ中です✌🏻
何をどうしていいか分かんね〜! 保存してあるデータのすべてがダサいし、なんなら今まで作った作品が全部恥ずかしくなってきました。燃やしたい。
こういうときは、とにかくやりまくるしかありません。書いて書いて書きまくって、聴いて歌って弾くしかないんです。
ということで皆さま、私のリハビリ作文に、どうかお付き合いください。
さる5/22 対読売巨人戦、東京ドームのレフトのホームランポールのお膝元、内野ビジター応援席で、後ろの席のとても気合いの入ったご夫婦にお喋りにお付き合いいただきました。
あの日は、5回表まで2-0ながら、5回裏に飛び出した投手小笠原さんのダイビングキャッチで野手陣が奮起し、6回表で大逆転。4-2で勝利を収めました。
大盛り上がりウッキウキの試合だったのですが、ことが起こった6回表までは、守っては四球や安打でピンチに陥り、打ってはチャンスを作るも決めきれず、レフトスタンドはやや盛り下がり気味でした。
そんな中、ずーっと気合いの入った応援をされていたのが後ろの席のご夫婦でした。そして、大逆転して誰よりも大きな声で喜んでいらしたのもそのご夫婦でした笑
酒が入ると調子に乗るでおなじみのわたくしは、逆転のウキウキに乗じてそんなご夫婦に果敢にアタック。応援のテンションと違わない素敵な笑顔でお話に応じてくださいました。
いやー細川カリステアチアチなんとちゃいますブヒブヒ、激アツの逆転でしたわーウホウホと勝手に盛り上がっている私に、奥様がふと「お姉さん、昨日外野の向こうの前のほう(レフトビジター席のセンター寄りの最前)にいたでしょう」とおっしゃったのです。
まあ確かにアクの強い女ですからね。あと声でかいし。声変だし。肩幅広いし。頭でかいし。覚えられてても不思議じゃないかァと思いつつ、とりあえず返した「えっ、どうして分かるんですか?」のお返事に、危うく涙が出そうになりました。
「36着てたから。岡野の」
ええ確かに。私は90パーセントくらいの確率で背番号36のユニフォームを着て球場をうろついています。
昨年戦力外通告を受けた選手です。着ている方はそうそういらっしゃらないでしょう。
いや、でもいますけどね! なんならこの前東京ドーム外野で36と57の聖光学院10年先輩後輩バッテリー並びで着てるお兄さんたち見たし! 去年は沖縄ユニの彼女さんとビジターユニの彼氏さんの素敵カップルも見かけましたから! はよ結婚しろ!!
…とにかく、私が背番号36のユニフォームを着ていたことで、私はこのご夫婦の素敵なハスキーボイスの奥様に認知をいただいていたわけです。やっほい。
と同時に、私が意地になって着ているこのユニフォームに、どんな気持ちでも少しでも目を向けてくださった方がいたのだと嬉しくなりました。
またその話かい、という感じだと思いますが、長すぎる自語りにお付き合いください。
私は2011年3月11日の東日本大震災で友人を亡くしています。12歳の小学6年生の私にはあまりにも受け入れ難く、12年間のどんな出来事よりも遠い世界の話に思えました。
そして、そうしてふわふわと気持ちが定まらないまま中学生になり、気が付けば海どころかお風呂や水溜まりの波にすら友人の死を重ねてしまうところまで追い込まれていきました。
それでも、中学1年生の1年間はそんな私を待ってはくれません。時間は何も解決してくれず、それどころか悲しみや恐怖が募っていくばかりでした。
そんな日々を送って1年が経ったころ。ふいにあの日が訪れました。
2012年3月26日。春休みかずる休みか覚えていませんが、とにかく無気力なままこたつにあたってテレビを眺めていました。
それなりに音が出ていれば番組なんかなんでもよかったけれど、そういえば聖光学院今日か、と思い選抜をつけました。連日夕方のニュースで飽きるほど聞いている学校名です。宮城出身の名うてのエースピッチャーがいて、今年は期待できそう、と。実家が浸水しても、放射能の危険があっても、福島で野球をすることを選んでくれたのだ、と。決してそれを楽しみにしていたわけではありません。むしろ、だからなんだよ、くらいに思っていました。その人がどんなにがんばろうと、起こったことは変わりませんから。
画面の向こうでは聖光学院の攻撃回が終わり、マウンドには入れ違いで聖光学院のピッチャーが上がってきました。見慣れた白地に青のユニフォームの背番号1が投球練習をしています。宮城出身のエースピッチャー。ヒョロいな、と思ったのを覚えています。
攻守交替の退屈しのぎで湯のみを回して底に沈んだ茶葉を混ぜていたとき、プレイのコールがかかりました。渋いお茶を飲み干して、顔をテレビに向けた瞬間。
そのイニングの第一球を放ったエースピッチャーの腕のひと振りに、目の前が真っ白になるくらいの衝撃を受けました。
エースピッチャーがバッターに向かい一心に投げたその一球は、13歳の私が沈み込みもがいていた、でも大切なものだと思っていた絶望そのものでした。
あの人が自分の境遇をどう捉えているかは分かりませんが、少なくとも私はかなり絶望的だなと思っていました。とても失礼ですが、もっと具体的かつ有り体に言えば、実家浸水した上に高校がある県の原子力発電所が爆発して放射能漏れしたのに、よくそのまま野球する気になったな、メンタルえぐ、と思っていました。(嫌な書き方でご不快になられたらすみません)
でも、そのピッチングを見て、そんなことを考えていたことを後悔しました。
当然ながら、ご本人もご家族もたくさんの葛藤や不安、恐怖があったはずです。でも、その上でこの人は野球を続けることを選んで、エースピッチャーとまで呼ばれるようになりました。
1年前に置き去りにされた私とは正反対の人でした。
私もこんなふうに、自分の手でこの絶望を振り払いたい。
霧のように視界を煙らせる悲しさの根源は、他でもない自分自身。悲しみを晴らすには、いつかストライクゾーンに収まると信じて投げ続けるしかありません。
それから私は、この悲しみや辛さの正体が何なのか、ひたすら考え続けました。
イメージを紙に書いたり、口に出したりしながら、なぜ私は今こんなふうにもがき苦しんでいるのか知ろうとしました。
そうしてたどり着いた答えは「抗えないものに対する不安」でした。
私と友人は、さして仲が良かったわけではないと思います。ただ、居心地が良いというか、動物が好きな私が猫を撫でている間、猫アレルギーなのに止めることも急かすこともせず少し離れたところでひとり遊びを始めていたり、逆に、大好きな車に夢中になり始めたら止まらなかったり。マリオカートではいつも2人ともカロンを選んでいたし、Newスーパーマリオブラザーズはわざわざルイージにして遊んでいました。
とにかく、自分と同じようにこだわりが強くておおらかで大雑把で波長が合う人でした。
会話もかなり少なかったです。共通の友達の都合で月に何度か会うだけです。
でも、お互いに何が好きか、いつも何をして遊ぶか、楽しいときはどんな顔をするか、全てを知っていました。特別仲良しではないけれど、とても好きでいなくなってほしくない人物のうちのひとりでした。
そんな人が、何の前触れもなくいなくなってしまったんです。悲しくなるのも当たり前ですよね。でも、当時の自分はそれに気が付けないほど過剰に震災を恐れていました。そうすることでしか、友人の死の悲しみを忘れることができなかったから。
震災という自然現象への行き場のない怒り、連日報道される惨状への恐怖、先の見えない復興への不安…… そのすべてが、私の頭の中の友人の姿を覆い隠していました。
決して見えないように、いなくなったことに気が付かないように、嫌いになってしまわないように。私が怖いのは友人の死じゃない。震災そのものだ。当時13歳だった私は、無意識に友人の死の悲しみを災害への恐怖にすり替えていたのです。
それが分かってからは早かったです。
恐れを忘れ、死を受け入れることは難しかったですが、少なくとも、地震という自然現象によって理不尽にもたらされた苦しみであることは理解できました。悲しんでいても友人は戻ってきません。だから、強引に前を向くしかありませんでした。
でも、震災への恐怖を忘れたら、その陰に隠れた友人のことを思い出してしまう。それなら、一度すべて忘れてしまえばいい。次に思い出すときはきっと、時間が解決してくれているはずです。
(あまり良くない考え方だと思います。21歳、25歳で二度考えを改めるタイミングがありました。そのきっかけも岡野さんです。25歳のときのことは岡野さんのトークショーの感想記事をご覧ください)
そう考え始めたら、途端に頭にかかっていたモヤが晴れていきました。
そうしてがむしゃらに月日を過ごしていくうち、本当に友人のことを頭の片隅に追いやって前を向くことができるようになりました。
(本当は、前を向いたわけではなく、中学から高校まで否応なしに忙殺される状況に陥っていただけでしたが……)
こうやって自分の中の恐怖と向き合う力をくれたあの人も、時が過ぎればもう震災のことを思い出させるだけの人です。だから、一緒に記憶の奥底にしまい込んでいました。
月日は流れ、震災から6年が経とうとしていた2017年3月。
高校卒業後、初めて岩手県某所の合同慰霊祭に参加しました。遺影や遺品を抱く方々に混じり、鎮魂の祈りを捧げました。さらに、ここにいる全員が前を向いて、新たな一歩を踏み出せますように。そして、あんなふうに悲しむことがありませんように。この穏やかにきらめく海、静かに生命を育む大地が、もう二度とあんな悲劇を生みませんように。
止まることなく寄り返す波。黙祷の中で響き続ける潮騒。太陽を反射する砂浜。目の前に広がる美しい自然に、無意識に震える手を握りしめながら、しゃくり上げる声と涙を押し殺し、ただひたすら祈り続けました。
その日を境に、無理やり押し込めていた恐怖が一気に戻ってきました。忙しい大学生活の中でも、ふとしたときに訪れる悲しみと恐怖。
明日死んじゃうかもしれない。車に轢かれたら、雷に打たれたら、そして何より、津波に呑まれたら。いつか訪れる終末がいつ来てもおかしくない事実に、いつも怯えていました。日常の中で息づくすべてがいつ牙を剥くか分からない事実に、震え上がっていました。
カウンセリングに通い、社会経験としてアルバイトもして、サークル活動や趣味にも精を出しました。常に何かをしていないと、最後の日のことを考えて不安や恐怖に駆られ、自らその道を選んでしまいそうでした。
そんな生活を続けて3年が経とうとしたある日、地元の野球好きの叔父が、私を旅行に誘ってくれました。行先は沖縄。プロ野球のキャンプの真っ只中です。
そのころには希死念慮はだいぶ抑えられていたものの、大学を休学し自暴自棄になっていました。さらに、タイミング悪く新型コロナウイルスが流行り始め、世の中も混乱状態でした。
元々外出はあまり好きではない性格なので、そのときの気分的にはまったく乗り気ではなかったのですが、押しが強い叔父に半ば強引に沖縄に連れ出されました。22歳を目前に控えた2020年の2月でした。
幸運にもコロナで規制がかかる前にキャンプインできた私と叔父と叔母。当時の私は、モチベーションがかなり低めの別球団ファンで、正直そちらのキャンプはあまり楽しめませんでした。というか、状況が状況なだけに、何も楽しめませんでした。かえりてえ、千葉に。なんなら土に。とずっと思っていました。さらに、気温差か飛行機の影響か、叔父が完全にノックダウン。コロナの関係もあり、予定をかなり早めに切り上げて福島へ帰ることになりました。
帰宅前日、空港までの道すがら、中日ドラゴンズのキャンプにどうしても行きたいという叔父に付き合って、北谷町に寄りました。
人の入りはぼちぼち。天気もぼちぼち。特に何をするでもなく野手の練習を眺め、サブグラウンドを軽く眺めて帰ろうとしたとき。人垣の向こうに、見たことのある人を見つけました。
8年前のあの日、選抜で投げていたあの人でした。
前述した通り、私は震災の記憶を薄れさせるため、それに関わるすべてを思い出さないようにしていました。それでも密かにあの人は応援していましたが、自分の大学入学を最後にほとんど追えていませんでした。てっきりプロ入りしたと思っていたら、たまたま行った都市対抗で名前を見かけて驚いたくらいです。
勝手にトラウマを擦り付けて遠ざけていた人物が目の前に現れ、すっかり気が動転してしまった私。ファンの方に呼ばれて立ち止まっていたその人を遠巻きに眺め、サインをもらおうか、声をかけようかと足を踏み出したり戻ったり、かなり不審な動きをしていました。
中学生時代の私を救ってくれたあの人は、(たぶん)夢を叶えてプロになっていました。
じゃあ、救われた私は? 大学を休学し、アルバイトで生計を立てるフリーターのような生活。就職先の目処がついたら大学を辞めるつもりでしたが、ろくに就活もせず、かといって勉強もせず、甘ったれた暮らしをしていました。
そんな私が、あんな素晴らしい人のファンでいていいのだろうか?
そう思ったら、それまで昂っていた気持ちが急に冷え切り、背を向けて帰り道に向かっていました。
そして、帰りの飛行機の中。いつ来るかも分からないものに怯え続け、あんなに自分に勇気をくれた人に近付くことさえためらってしまった自分の情けなさに腹が立ちました。
こんなしょうもない人間のまま、今この瞬間死ぬかもしれないなんて。私は本当にそれでいいんだろうか。死を恐れることが、そしてそんな自分への甘えが、私自身にもたらしてくれたものはあっただろうか。もしかして私は、とんでもなくムダなものを大事にして、本当に必要なものを取りこぼしながら過ごしていたのでは?
そう思ったら、あんなに恐れ、心のほぼすべてを占めていたものが、急に道端の石ころくらいくだらないものに見えてきました。この死とかいう石ころはこの世界中のどこにでも転がっていて、すべての生き物は遅かれ早かれこの石ころを拾って小脇に抱え、颯爽と三途の川を渡ったり、お迎えの天使に見せびらかしたりするわけです。
じゃあそのときが来たら拾えばいいじゃん。今から大事に持っとく必要ないな。捨てよ。
羽田空港に降り立ったとき、大きなロビーにたくさんの人がいることに気が付きました。色々な服を着て、色々な荷物を持っていました。
今更ながら、そんなことにすら目を向けられなかった自分が、それから、体調が悪すぎて見たことがない顔色をした叔父があまりにもおかしくて、久しぶりに心の底から笑いました。(叔父はそのあと自力で歩けなくなり医務室に運ばれていきました。低血糖だったそうです。顔が段ボールみたいな色してました)
そのあとすぐ、就職先を見つけ大学を退学しました。後悔はほんの少ししかありません。
機械いじりが大好きだったので、倉庫の機械の整備の仕事に就きました。忙しいながらも充実感があり、現地やリアルタイムでの視聴が難しくてもぼんやりとプロ野球を眺められる日々でした。働き始めた2年後には、久しぶりに甲子園を全部テレビで観戦することもできました。
また、そのころたまたま行ったクラブのオーナーと音楽の趣味が似ていることをきっかけに仲良くなり、DJや作曲のお仕事をさせていただけるようになりました。学生時代から趣味の延長で細々と続けていた文筆業と合わせてそれなりの収入を得られるようになり、精神的にもだいぶ余裕が生まれました。
そしてきたる2022年の11月、その年に甲子園で惚れ込んだ聖光学院をベスト4に導いた山浅くんが中日ドラゴンズに指名されたことに運命を感じ、野球観戦の時間を作れる会社に転職しました。
3月の開幕時は2人とも二軍だったので、どうにか時間を作り現地へ。
せっかくならお誕生日の19歳でも眺めるかァと思い、先発ローテも見つつ、2023年4月21日(山浅くんの19歳のお誕生日)の甲子園球場へ行くことにしました。
電車を乗り間違え、甲子園球場に着いたのは1回裏。その時点で既に泣いていました。
電光掲示板に書かれたあの人の名前。さらに涙が溢れました。
そして、席に着くまで見ないようにしていたマウンド。
あの人が、あの日と何ひとつ変わらず、ただ淡々と投げていました。
ユニフォームが白地に黄色と青から白地に水色、そして赤になって、一回だけ紺色と赤、白地のストライプを着て、今は青で。17歳から29歳になって。
それでも、私にとっては何ひとつ変わらない姿でした。
4月。人がまばらな甲子園球場。二軍戦。夏顔負けの日差し。1枚のユニフォームと2枚のタオル。
拍手したとき、自分の右手の指輪と左手の指輪がぶつかる音と振動。ときどき起こるどよめき。
(あと左斜め前の人は2回から5回までずっと1個の唐揚げ食べ続けてた。)
目の前のたったひとつのことすら忘れたくない。
あんな気持ちは初めてでした。
あの人が6回でマウンドを降りたあと。座席の前のシートの背もたれに、あの人が前に着ていた真っ赤なユニフォームに書いてあった文字と同じアルファベット7文字が刻まれているのを見つけて、またほんの少しだけ泣きました。
それから5ヶ月後の2023年10月1日。福岡のタマスタ筑後で投げているのを、同じ色、同じ背番号のユニフォームを着て、横浜の街中で小さな画面越しに見ていました。
最後のマウンドを降りるその瞬間まで、ずっとあの人はあの人でした。
全然変わらないあの人に憧れ、変わろうと決意し、そして変われた自分。文章にするとちょっと変かも笑
でも、私は本当に、あの人みたいになりたかったんです。どんな人とか、どんなところに憧れてるとか、具体的な言葉にはできません。でも、本当に本当に、あんな人になりたかったんです。
あの人が本当はどんな人なのか知らないし、知りたくありません。ただ、私の記憶の中にいるあの人に、少しでも近付きたい。今でもそう思っています。
だから私は、別の誰かのものになった今も、この青色の36を着ています。
同じ服を着たら同じになれるわけでもないし、いくら同じ服を着て応援していても、この青色の36でマウンドに立つあの人の姿はもう見られません。
それでもやっぱり、あの一球が忘れられないんです。白地に黄色と青の1が青地に白の36に変わっても、どうしてもあの衝撃が頭を離れないんです。
この世界のすべての人や物は、ほんの些細な出来事で一変します。
溜め込んだものがあるとき一気に解き放たれてしまうこともあれば、逆に何もなかったところが何かで満たされていくこともあります。
昨日は嫌いだった人を、今日は好きになるかもしれません。昨日は出なかった芽が、今日は出ているかもしれません。新しい道が今日から通れるようになった、バイトを始めた、免許を取った、初めてタバコを吸った、スマホを機種変した……
そうして日々目まぐるしく変わる世界の中から、本当に大切なものを見つけるのは簡単なことではありません。裏切られたり、勝手になくなったりは日常茶飯事です。
それでも、顔を上げたら意外と他にも色々なものが転がっているかもしれません。いらなかったら捨てたらいいし、手放したくなかったら思い出として額にでも入れて飾っておいたらいいんです。
とにかく、人生でたったひとつでも、最後の瞬間まで手離したくない何かを見つけられたら、そんなに素晴らしいことはありません。
……なんて偉そうなことを言いながら、きっと私はこれから何度もどうでもいいことを抱え込んで生きていくでしょう。私はそういう人間です。
でも、そうなってしまったとき、この青色の36がきっとまた私を変えてくれるはずです。
人生あと何年あるか分かりませんが、自分の手で世界を変えていけるようになるまで、力を貸していただけたらなぁと思う次第です。
衣を取っ払ったエビフライは、ただの火の通ったパサパサのエビです。そんなもん美味しいわけ……
……それはそれで美味しそうだな…… 多少パサつくかもしれませんが、わさび醤油やタルタルソースをつければいい酒のつまみに……
いや、でもやっぱり、私は衣がついたサクサクのエビフライが、一番美味しいエビの食べ方だと思いますね。