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朧月 #シロクマ文芸部
「朧月……」
ぼんやりとした月を見ると、そう名乗ったあの人のことを思い出す。
あの頃の僕は、頭がぐちゃぐちゃになるとよく行く場所があった。坂の上にある見晴らしのいい公園、そこに座って広い空を見ているとだんだん頭が空っぽになってくる。そうしていると、何も解決していなくてもなんとかなるような気がしてくるから不思議だった。
彼女に出会ったのもその公園だった。
その日の夕方、坂を登るといつものベンチに人影が見えた。地元では心霊スポットとの噂もあるその公園、一瞬ドキッとしたが若い女性のようだった。
引き返そうかとためらっていると、急に強い風が吹き、彼女の帽子が僕の方へ飛んできた。それ以上飛ばされないよう走って捕まえにいくと、彼女が僕の方へ歩いてきた。
「ありがとうございます」
その姿を見て、僕は驚いて目を見開いた。彼女は写真で見たあの人にそっくりだった。僕の本当の母親だというあの人に。
その写真を見せられたのは高校を卒業した頃だった。突然父と母に呼ばれ、一枚の写真を見せられた。意味がわからず「は?」と言って二人の顔を見ると、父は思いもよらないことを言った。
「この人がおまえを産んだ母親だ」
母を本当の母親だと、疑いもせず育ってきた僕にとっては、そんな映画のようなことを言われても全く実感がわかなかった。会いたいかと聞かれたが、会っても何の感情もわかないからと断った。
持っていなさいと渡されたその写真を、一度まじまじと見たことがある。でもやっぱり何の感情も湧かず、引き出しに放り込んだままになっていた。
その母親という人に、彼女はそっくりだったのだ。長い髪に帽子を被り、白い小花のワンピースの柄までそっくりだった。驚いている僕に彼女はもう一度「ありがとう」と微笑むと、帽子を僕の手からそっと取った。
「この辺りの方ですか?」
彼女に尋ねられ「あ、はい」とやっと我にかえり彼女を見た。やはりただの似ている人なんだろうか。
「そこのホテルに泊まっているんですけど、どこかおすすめの場所とかあります?」
ああそれならと、頭の中の疑問を隅っこに追いやって、眼下の街を指差しながらいくつかの観光スポットを教えた。ふと彼女を見ると、彼女は街ではなく僕のことを見つめていた。それも暖かく優しいまなざしで。
ドキッとして目をそらすと、彼女は「そろそろ戻りますね」と歩き出した。
「あの、名前は」
そう聞く僕に彼女は、いつの間にか昇っていた月を見ながら
「朧月……」と呟いた。
「え?名前は」もう一度聞くと
「朧月とでも覚えていてください。」そう言うと彼女は振り返りもせず行ってしまった。
彼女は一体何だったのだろう、写真のあの人そっくりな彼女。まさか写真から抜け出してきたわけでは。
そんなことを考えながら、僕を見つめる彼女を思い出した。まるで愛しいものでも見るような、包み込むような眼差し。やっぱり彼女は……
僕は朧月を見ると、あの幻のような彼女との出会いを思い出す。
**
「お母さん、行ってきたよ」
ロングヘアのかつらを取りながら、理沙が病室に入ってきた。ベッドにはすっかり痩せてしまった女性が寝ていた。
「ごめんね変なこと頼んで」女性が顔を少し傾けると、理沙は興奮したように話し出した。
「あの人、お母さんのこと知ってるよ。だってお母さんのワンピースを着た私のこと見てびっくりして固まってたもん」
「そう、あの人、話してくれたんだ」
少し寂しげに微笑む母親の手に自分の手を重ね、理沙は窓の外を見た。
「朧月」
「え?」母親が聞き返すと理沙が続けた。
「朧月って名乗ってきたの。あの人きっと朧月を見たらお母さんのこと思い出すよ」
母親も月を見た。
「朧月か、ステキだね。でも、騙すようなことしちゃってよかったのかなあ」
「いいよいいよ。だってバッチリ母の眼差しで見つめてきたからね。きっと生みの親の愛情を感じたと思うよ」
「理沙、そんなことできるようになったんだ」嬉しそうに微笑む母親に理沙も満足気だった。
「ま、だてに舞台に立ってませんから」
二人は言葉を一つずつ飲み込み、もう一度月を見上げた。
シロクマ文芸部 小牧幸助さんの企画に参加します。
朧月夜は、幻想的な気持ちになりそうですね。