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30年
当時、高校3年。センター試験を受け終わり愕然としていた翌朝のことだった。今でも鮮明に覚えている。
わたしの家は宝塚の高台にあった。岩盤の山の上に立つわが家は、思いもかけない揺れに見舞われた。驚いて目覚めたものの、立てかけてあったものが倒れて割れたりした程度で、食器が飛び出て大変とか棚が倒れて大変とか、そこまでには至らなかった。いくつかの食器が割れたりはあったが、宝塚なのに今でもまだ不思議に思う。最初は母親に超絶揺さぶられて起こされてると思ったくらいなのだから。
災害と気づくまで5秒くらいはかかっていたと思う。揺れがおさまった後、母親がわたしを呼ぶ声で父も母も大丈夫であることを知り、改めて部屋から眼下に広がる大阪平野を眺めた。普段だと明け方薄暗い中にもキラキラまだ光ってついているはずの街灯たちが全て消え、真っ暗闇になっていた。あれだけは忘れもしない。隕石か爆弾が落ちたのか、とも思った。
不幸中の幸いだが、わたしの実家のあるエリアは家が壊れた様子はなく、電気だけはいち早く復旧した。ガスと水道は皆無だったが。
なので、日が登ってからはテレビで状況を知っていった。知っている場所がありえない悲惨なことになっていた。
その日はセンター試験後初の登校日。結果を学校に提出し、一次試験どこを受けるのか決めて報告する日でもあったが、この状態だと学校にもいけない。学校があるのは西宮。テレビでもその方面へは電車が動いていないことが流れている。父の勤務先は十三で、その時阪急宝塚線は我が最寄駅から梅田までは動き始めたとなっていて、父は仕事に行こうとしていたのを覚えている。わたしは母と相談して学校を休むことにした。父も結局行かなかったはずだ。自分のことで精一杯であまり記憶がない。
その後一度だけ集められた登校日で、学校の校舎のあちこちが被害を受けていて、全壊していたり半壊で立ち入り禁止になっていたり、実は活断層が通っていたらしい場所があったりと、美しい校舎がとんでもないことになっていた現状を知った。結局その後3学期は卒業式まで学校には行けなかった。3学期の成績は1学期と2学期の平均点がついて卒業できたが、みんなとラストの思い出が作れなかったことは寂しかった記憶がある。
そうなのだ。どこを切り取っても自分の今とこれからのことだけしか考えられなかった記憶しかない。そもそも大学受験はできるのか、一次試験までの間予備校は行けるのか、そもそも勉強よりこのまま暮らしていけるのか、など。
わたしよりももっと大変なことになっているの人たちがたくさんいるのは、当然頭では理解していたけれど、やっぱり自己中にしかなれなかった。高校3年にもなるのにまだまだ子どもだった。もしかしたら大学受験は全部なくなって、今回は試験を受けずに済んだりするのかな、なんていう不謹慎なことまで考えていたくらいだ。
結果的にそんなことはなく、それならば逆になんとか現地まで試験を受けに行く、と通っていない路線を使わず遠回りして電車を乗り継いで受けに行ったのも覚えている。震災関係なく、わたしの単なる勉強不足の結果、浪人生活がその年に始まった。
当時の父親は49歳。母親は53歳。わたしも先日48歳になった。もうそんな年齢だ。
当時の両親含め、学校の先生や予備校の先生を含んだ大人たちは、自分のこと以外に当時のわたしのような中途半端な青年たちを、彼らそれぞれの立場から、なんとかしゃがんだり曲がったり消えたりしないように支え守ってくれたことを今改めて考えると、なんと大変だったことだろうと驚きを隠せない。もし今の自分が同じ立場だったら、同じようなことができるのだろうか、とても不思議な気持ちになる。だからなおのこと、当時の大人たちへの感謝はし尽くしてもし尽くせない。同時に今のわたしにできることは何か、考えさせられる。
扉画像は、わたしたちの学年の高校の卒業アルバム。そうなのだ、卒アルに阪神・淡路大震災の写真が載っている。そして、中高時代の同窓生から震災当時の学校の様子の一部がここに掲載されていると教えてもらった。
思わず見に行ったら、いろんな思いが込み上げてしまい、手が赴くまま30年のこの日にnoteに記しておく。
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