「何も言えなくなったこと」〜タクシー運転手の思い出〜
こんばんは。今日は私がタクシー運転手をしていた頃のお話をしてみる。タイトルの通り本当に「何も言えなくなったこと」って人生の中でそうそう無いと思うが、それがあったという話。
その日の私はいつものようにタクシー乗務員として勤務していた。夕方に流す場所は札幌の中心地から少し離れた住宅街。ここからススキノへ出勤する水商売のお客さんを乗せるのが狙いだ。この時間から出勤する方々は大体が新人。早めに店に入って準備をするためだろう。当然夜7時頃から店に向かう方は「ママ」クラスの方だ。
そんことを考えながら住宅街を流していると、とある路地から急に人が飛び出してきた!
「キキーッ!」
急ブレーキをかけてなんとか止まった。その人は30歳前だろうか、少し疲れた男性だった。その男性は強引にタクシーのドアを開けてを乗り込んできた。
「前の車をつけて!」
このセリフを実生活で聞いたのは初めてだった。一瞬耳を疑って頭が白くなったが、すごい形相で前方を指刺す男性を見て我に帰った。「はい!前の車ですね」私は努めて冷静に答えて前の車を追った。
その車は他社のタクシーだった。相手もプロだ、ここは慎重に。私は気づかれないように少し距離を取りつつ見失わないように尾行した。
少し落ちつたところで、男性の方から話してきた。「結婚が決まってる彼女なんだ。」男性はたどたどしく語り出した。「最近、彼女の行動がおかしくて。どこかに定期的に行っているんだ。そして今日も…。だから今日こそ彼女を追いかけてその真相を知りたいんだ!」
男性はだんだん感情的になってきて言葉が荒くなっていく。
「分かりました」
私はたいして分かってはいないが、その気持ちは理解できる。乗り掛かった船だ、一緒に真実を暴こう!そんな連帯感が一瞬生まれた。
しばらくすると前のタクシーは、とあるマンションに入っていった。私もゆっくりとその後を追う。するとなぜか男性の口数は少なくなり、体を低くして見つからないようにしているのか急におどおどし始めた。ん?この感じどこかで見たぞ、
あっ、健さんだ
「幸福の黄色いハンカチ」のクライマックスシーンで、期待と絶望を行き来する時の健さんだ!そんなことを考えながら男性に聞いてみた。「どうしましたか?」「いや、このマンションということは…。も、もういい」「え?もういいんですか?」「そう!もう帰ろう!」
そんなやりとりをして急遽帰ることになった。どうしても府に落ちなくて帰りの車内で聞いてみると、そのマンションには「元彼」が住んでいるのだそうだ。それが分かったのでもう覚悟したらしい。もう結婚は取りやめ。破談。そう言って男性は窓の外を見ている。呆然としながらも少し顔が笑ってる。私は、
何も言えなかった
どんな言葉も出なかった。ありきたりな慰めを言おうともしたが、どれも軽々すぎて口から出てこなかった。
あれから随分年月が経ったが、あの時の男性はどうしてるだろうか。今の私ならどういう言葉がかけられるだろうか。時々考える。
ではまた。