東京の中の江戸を感じる散策会〜上巻前編
この週末は、「歴史を楽しむ会」と「史跡散策」という2つのグループによる共催企画【江戸の町を感じよう】という2日間の散策イベントに参加してきました。
ご案内は、八方桂 流浪(はっぽうけい るろう)こと宮本康司さん。
「水の巻」と称する 1日目のテーマは、神田上水。
なんだかんだで長くなってしまったので、いったん前編としてお送りします。
家康肝煎の事業
高田馬場駅に集合して、都電荒川線を横目にバスで鶴巻町へ。
そこから首都高をくぐり、スタート地点の「神田上水取水口大洗堰跡」へ移動します。
今回の散策、雨が心配だったのですが、肌が痛いくらいの陽射しが照り付ける状態。
アブラゼミもミンミンゼミも鳴き始め、真夏先取りの陽気でした。
大洗堰(おおあらいぜき)は、上水に流れ込む水の量を調節した場所。
井の頭池を源流とする神田川から分けられた神田上水は、ここから水戸藩の上屋敷、すなわち後楽園方面へ、さらに神田・日本橋方面に供給されました。
神田川は当時「江戸川」と呼ばれました。
今の江戸川は利根川からの分流のことを指しますが、もちろんそれとは無関係。
この近くにあって駅名にもなっている「江戸川橋」。
なぜだろうと長年の疑問でしたが、やっとその理由がわかりました。
夏の日差しの中、水の痕跡を辿る
セミの声を背に受けながら、今の風景と古地図を確認しながら進みます。
「大江戸 今昔めぐり」(おおえどこんじゃくめぐり)というアプリにより、江戸時代末期の古地図と現代の地図を重ねて見ることが可能に。
今いる場所が、江戸時代、どんな場所だったのか、誰が住んでいたのかがわかるのです。
ちょっとタイムスリップしたような気分で、わくわくします。
旧江戸川の神田川、すなわち首都高から離れ、少し進むと現在の音羽一丁目一番地のあたりで、道が二つに分かれています。
左手に向かっている道が、かつての神田上水。
そしてその先は水道2丁目だったり小日向1丁目だったりするのですが、もとは「小日向水道町」。
分岐の手前には「関口水道町」もあり、上水の管理を任された人たちが住んでいたとのことです。
先へ進むと、「神田上水旧白堀跡」という遺跡を見ることができます。
建設工事に伴って行われた発掘調査で、約10年前に発見されたもの、とのこと。
神田上水は家康が江戸入府時に整備させたのが始まりですが、この「白堀跡」から、素材や技術が江戸城のものと同水準のものだったということがわかったそうです。それだけ家康が、上水建設に力を入れていたということがわかります。
白堀とは開渠、すなわち蓋で覆っていない水路のこと。
そのままではゴミが紛れたり汚れたりすることから、水役人などが定められ、厳重に管理されていたわけです。
上水にゴミを入れるようなことが発覚した場合は、軽くて百叩きという厳しい罰が下されたとか。
明治維新後、水管理の重要性を理解できなかった維新政府によって水役人は廃止に。
その結果、上水の水は汚れる一方となったため、蓋で覆う暗渠となり、巻石通りという道となりました。
この道がくねくねと曲がりくねっているのは、水路だった名残とのことです。
ちなみに神田上水が、のちに作られた玉川上水とともに、江戸に多くの水を供給したため、近世において世界に稀に見る、100万人もの人が住むことを可能にした、とのこと。
しばらくこの巻石通り沿いに進みながら脇道を見ると常に上り坂。
この道が川だったと思えば、サイドが坂になっているのは当然で、今まではこのあたりは坂道が多いなあ、くらいにしか考えていませんでした。いかに漫然と風景を見ていたことかと思い知らされます。
一気に幕末へと思いを馳せる
ちなみにこの脇道に、会津中将・松平容保や、最後の将軍・徳川慶喜が晩年を過ごした場所があり、暑い中登り坂はつらいと言いつつ、そこにも立ち寄りました。
普通に外を走っている地下鉄・丸の内線の線路と、小石川後楽園方面を眺めながら余生を送った慶喜に思いを馳せながら、巻石通りを先へ。
安藤坂にいたり、そこから後楽園方面には向かわず、飯田橋の方へ。
上水ではなく、神田川の方に沿って進むわけです。
飯田橋のあるところで神田川は外堀と合流しますが、江戸時代に飯田橋はありませんでした。
わずかに、公衆便所にその名をとどめる「船河原橋」が、神田川の対岸とつないでいましたが、それが繋がる外堀に橋はなく、西の牛込御門か東の小石川御門に向かわなければなりませんでした。
現代の我々は飯田橋(の上にかかる歩道橋)をありがたく渡らせていただき、目白通りへと歩を進めました。