神秘と恐怖について(ブルーアーカイブ)
ブルーアーカイブについて考えるコーナー、
今回は神秘と恐怖についてです。
今までの全体まとめはこちら
ブルーアーカイブにおいて、「神秘の裏側は恐怖」であるらしいです。
最終編1章15話「沈みゆく物語」をはじめ、
いろいろなところで言及されていました。
これほどまでにわかったようなわからんような言葉もありません。
どういうことなのか、考えていきましょう。
ちなみに、いきなり最終編の話が出てくるあたりからおわかりのようにネタバレ祭りです。なんも気にせず語りますのでご留意ください。
恐怖→名もなき神々→神秘
目の前の事物そのものは理解不能である。
ここはもはや信仰ですので、そういうものなんだと思ってください。
現実にある「もの自体」は理解できません。
あえて例示をするのであれば、
名前を付けないと目の前にある文字の書いてある板は板でしかないが、
タブレットという名前がつくことでタブレットになる、
とかそういうことです。
茫漠とした世界と境界がないものは、あまりにもでかすぎて把握できない、ということでもあります。
理解不能なものは恐怖である。
これはつい先日公開された「Rabbit小隊と消えたエビの謎」でも言及されていました。
わからないものが怖いというのは、
みなさんにも覚えのある感情かと思います。
「死」は理解できません。
今のところ、死んだ後に復活した人間はいないとされています。
死の経験者がいない以上、死を語ることができる人間もいません。
したがって、死は恐怖です。
「暗闇」も理解できません。
暗いので見えない、ということです。
見えないので怖い、ということになります。
「他者」も理解できません。
他人が何を考えているのか、何を思っているのか、本当の意味で理解することはできません。他人の心を読むことはできないので。
したがって、他者は恐怖です。
理解不能なものにラベルを貼ることで神秘になる。
最終編1章追加時(2023/1/22)のツイートを丸々引っ張ってきました。
良いことを言っていますね。
「死」というのは理不尽なものです。
人は必ず死にますが、その死を理解することはできません。
しかし、「死」に「死の神」というラベルを与えることで、
「死の神を怒らせたから報いとして死を受けたのだ」などのように、
多少なりとも理解することができるようになります。
溜飲を下げると言ってもいいかもしれません。
その理解は死のいくつかの側面だけを抜き出したものでしかなく、
正しいものではないとしても、
理解できないことの恐怖よりはましです。
こうしたラベル貼りによって、
恐怖から神秘へと一歩踏み出すことができます。
こうした死の擬人化は言ってみれば「死の神」という設定であり、
死を利用しやすくするものなので、
アーカイブ的な存在だと言えるでしょう。
ラベルに名前を書くことで生徒になる。
こうしてできた「死の神」を元ネタにすることで、
砂狼シロコというキャラクターが生まれます。
ことここに至って、生徒(神秘)になることができました。
逆に言えば、「死」に「死の神」というラベルを貼った段階では、
「神秘」の弱い段階であると言えるかもしれません。
パヴァーヌ2章で言うところの「アーカイブ化」によって行き着く先は、
この弱い段階なのかもしれませんね。
恐らく、これが「名もなき神々」ということなのだと思います。
「砂狼シロコ」というキャラクターとしての名前は持っていないが、「死」そのものではなく「死の神」という擬人化はされた存在です。
名前があり、ラベルの裏側も見えている=崇高
今までの話を踏まえて、崇高について考えてみましょう。
考えてみるというか、今までの話を当てはめるだけですけれど。
「崇高」について作中では、無名の司祭によって
「「神秘」であり、「恐怖」であり、「崇高」」
として語られています。
「崇高」であるとされたのはシロコ*テラーです。
「死の神」シロコ*テラーが
「「神秘」かつ「恐怖」=「崇高」」だとされているのは、
単なる神秘(キャラクター)ではなく、
単なる恐怖(死そのもの)でもなく、
名もなき神々である(=元ネタの設定が逆輸入されている)からだ、
という説を推しています。
色彩に触れた結果こうした事象が起きるというのはどうして?
という疑問については、次の色彩についての記事で考えます。
あんまり真正面からは答えませんが……。
余談:ラベルが貼ってあると生徒である。
さて、「ラベルを貼ると生徒である」についても触れておきます。
理解不能なもの(=恐怖)にラベルを貼ると名もなき神々となり、そこに名前が付与されると生徒になるという話でした。
ラベルというのは名前を示すものです。
呼び名が異なると、異なるラベルが貼られることになります。
異なるラベルが貼ってあると、異なる生徒であるということになります。
何が言いたいかといいますと、
「水着」というラベルを貼ると、
元の生徒とは別の生徒として扱われるということです。
ミユとミユ(水着)は別の生徒なのです。
だからこそ、同一の戦闘に二人とも連れて行けるわけですね。
驕るな―――!
あれは結局なんだったんでしょうね。
シロコ*テラーは「崇高」なので、ラベルの裏側が見えてしまっていてもう既に生徒(神秘)ではないのに生徒として扱えるふりをするな、ということでしょうか。
「シロコ*テラー(生徒)が行ったことに対して、先生(大人)が責任をとる」と言ったことに対するアンサーなので、大きく外れてはいないかなと思います。
何言っとんねん、という感じですが、
どうも主にラカンの精神分析において使用される用語のようです。
本当にざっくり言うと、
「想像界で表象」がラベルを貼られる前の「恐怖」に対応し、
「現実界へと至る」の部分は「崇高」になったことを表すようです。
「象徴界の記号」はラベルが貼ってある「神秘」だよということであり、
隠喩というのはシロコというキャラクターの奥に「死の神」という設定があるということですかね。
ラカンの論においては「現実界」とは人間が触れたり所有したりすることができないもので、したがって全てを把握し言語で語り尽くすことができないものの、言語によって語る以外にアプローチできないとされています。
こういう、言ってみれば筆舌に尽くしがたい状態なので、言語によるラベルを貼って「生徒」の枠に落とし込もうとするのは、まあ確かに驕るなと言われても仕方のない行いだったのかもしれませんね。
まとめ
ずいぶんぐちゃぐちゃとしてしまいましたが、まとめると以下になります。
「死」や「他者」は理解できず、理解できないものは恐怖である。
理解できないものにラベルを貼ることで、要素をそぎ落としたアーカイブ的な存在(=名もなき神々)として理解することができる。
さらに名前を付けると生徒(神秘)になる。
生徒(神秘)のラベルを剥がして元ネタの側面を強く出すと、「崇高」と呼ばれる。
別のラベルが貼ってあると別の生徒なので、シュンとシュン(幼女)が併存できる。