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山への連れ去り事件のこと。― 前編 ―
就職してまだ間もない頃。
大好きな仕事だったし、やりがいを感じながら働けるのは本当に幸せだった。とても忙しくて自分の時間なんて無いに等しい業界だったけれど、それが苦にならないくらい楽しかった。
支店長からの信頼もあって、ありがたくも若くしてそれなりの立場に就かせていただけた。報いたいので、さらに頑張ろうと毎日仕事の事ばかり考えていた。同僚たちも皆最高のメンバーで、どんなに大変でも互いがうまくフォローし合える、そんな笑顔の絶えない職場だった。
ある日、入社してきた同年代の男性。おとなしい感じだけど真面目だし、流れを教えながら育てていた。少しずつ皆とも馴染みだして、彼もまた大切な戦力になろうとしていた。
その頃から、仕事上がりに良く声を掛けられるようになった。
終業時刻は遅いし(23時あたり)次の日も朝早くから仕事があるため、少しでもはやく帰宅して休みたかったので、毎度お断りしていました。
駐車場に続く真っ暗な道を「いいじゃないですか、行きましょうよ」と声を掛けてくる彼に、「ごめんなさい、行けません」と言いつつ歩くのが定番になりつつあった。
いつも以上に忙しかった、ある夜。
仕事を終えて駐車場へ向かって歩く私の後ろを、彼が歩いてついてくる。
無言なのが不気味だった。走り出したい気持ちを抑えながら、自分の車へと向かう。
ひらけた駐車場に出たその時、突然彼が「普段どんなCD聞くんですか?」と尋ねてきたので、「○○とかを聞きますよ」と返すと、「全部CD持ってるから聞いたことの無いものがあれば貸しますよ!」と言うので、少しだけ見せてもらう事にした。
運転席から助手席のドアを開ける彼(昭和あるある)
ダッシュボードの中にあるというので、助手席に乗り込んで車内ライトをつけようとしたその時、車が急発進した。頭が真っ白になった。
お前は走り屋か!というほどに飛ばしながら、無言でどこかへ向かう。
恐怖心で爆発しそうだ。とりあえずシートベルトを締めるものの、思考は大混乱だ。
そっとダッシュボードを開けてみた。
汚い手袋と、くしゃくしゃの紙が詰まっているのが見えただけだった。
こんな時、何を言ったらいいのか。
昭和時代の車だから、走行中も開けようと思えばドアは開くのだけれど、転がり落ちたら間違いなく大怪我か死ぬかだろうというスピード。
下手に刺激するようなことを言えば、殺されてしまうのでは…。
こんな時、何を言ったらいいのか。(2回目)
私「CD・・・ないですね」
彼「・・・(無言)」
私「・・・どこへ行くんですか」
彼「・・・(無言)」
街から外れるその方向が山だという事を、私は知っている。
私「降ろしてください」
彼「・・・(無言)」
私「帰りたいんです」
彼「・・・嫌だ」@小声
私「じゃぁ別の日に約束してからにしませんか?今日は帰らないと困るんです。明日の業務量、知っているでしょう?」
彼は暫く無言だったけれど、山に入る少し前の真っ暗な道で左に寄せて停車した。そして運転席のサンルーフから何かを取り、私の腕を掴んでまくり上げた。恐怖心で、全く声が出なかった。
固まった私の腕に、数字が描かれていく。メーターやカーオーディオのみの薄暗い光の中で、その光景がスローモーションに見える。彼が書き終わったときに理解した。それは彼の携帯番号だった。
取り出されたのがナイフではなくてよかった。マジックで良かった。いや、良くないぞ。まだ物凄く危うい状況だ。これは彼に電話をしろという事なのか?ここで騒ぎ立てて逃げても民家なんてないし、車外に逃げたところで後ろから車で追われて呆気なく轢き殺される可能性もある。
穏便に、とにかく解放されるまで全力で空気を読むんだわたし!←
私「・・・電話で日時を決めるという事で良いのですか?」
彼「うん。電話して。必ず電話して。」
私「じゃぁ、駐車場に戻ってくれますか?」
彼「・・・」@車を発進
元来た道を、戻っていく。生きた心地がしない。
何か一つでもミスをすれば危険だという緊張感に満ちている。それでもそれを顔に出せば、折角のこのチャンスが泡と消えるやもしれない。私も固く沈黙し、シートベルトを握りしめた。
駐車場に着いた。できるだけ慌てないようにロックを外して、ドアを開ける。引き攣らないように、渾身の【普通の顔】で、「お疲れ様でしたー」なんて言いながら、自分の車に歩く。
手が震えてキーがうまく刺さらないって、実際あるんだよ(´;Д;`)
彼は立ち去らない。車の中からずっとこちらを見ているようだ。ヘッドライトがずっと私を照らしている。それが余計に恐怖心を煽る。
両手で鍵を握りしめ、何とか差し込んで廻し、車に乗り込むと同時にロックした。そこでやっと息ができるような気がした。
早く帰らなければ。帰るというか、とにかくこの場から立ち去らなければ。
エンジンをかけ、自宅と反対方向に走り出す。
万が一を考えての事だったけれど、案の定するーっと動き出した彼の車は、後方から私を追いかけてくる。
もう恐怖心の大爆発である。
こちらも加速する。運転自体は下手ではない。(と思う)同年代の普通の人と走り合うなら勝てるくらいのレベルには、車が好きだった。
愛車はミッション。シフトを握り、ガコガコッと切り替えながら自分の気持ちも切り替える。彼を撒く事、事故を起こさない事。恐怖心は失敗の元!
落ち着くんだ、わたし。大丈夫、絶対に撒けるはず。
逃げる私に気付いたのか、彼も加速する。
夜遅くにカーチェイス状態の二台。警察が来たっていい。むしろこちらには好都合である。わざとエンジン音をあげながら、信号に引っかからないように地元の夜の街を駆けていく。
チカチカと点滅する緑の歩行者信号を見つけ、賭けに出る。
彼が通るころには赤信号だ。
信号無視してついてくるのなら、向かう先は交番一択。
もしも赤信号で停車するなら、そのまま大回りをして自宅へ帰る。
結果、彼は赤信号に掛かった。ちらりとミラーで確認し、そのまま路地へ入り、裏道を抜けて大通りへ戻る。やかましいほどに、心臓が跳ねている。逃げ切ったのだ。泣きたいような、複雑な感情が押し寄せる。しかし、まだやることがある。
人気のある安全な場所を確認してから停車し、支店長の携帯に電話をする。時間が時間だし、ご家族の迷惑もよぎるけれど、今は私が緊急事態なのである。数コールで電話に出てくれた。
支店長「おっ!深紅じゃないか、どうした?」
その優しい声に泣きそうなのをぐっとこらえて、事情を話す。支店長の声色が変わり、対処するとは言ってくれたけれど・・・私は明日、出社しても大丈夫なのだろうか。
つづく。 (※長くなったので分割します)
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