『人間の建設』No.42 「一(いち)」という観念 №3〈懐かしさという情操〉
次に岡さんが、順序数について話します。生まれて八ヵ月のころ、鈴を振って聞かせると、初めは「おや」という表情をする。二度目には、遠いものを思い出すような目の色。三度目からはどんどん振るようせがまれる。
ここで印象的なのが、岡さんが八ヵ月と具体的・断定的に言っています。一を知るのが生後十八ヵ月だと前段で岡さんが言いましたが、今回は順序数の話。岡さんが自分のお子さんを観察した上のことでしょうか。
岡さんは、子が「目の色を見せる」と表現しています。詩的な表現とも取れますが、赤ちゃんの表情を見たときに、お子さんの目の色が実際に変わったんでしょうね。
子供、特に赤ちゃんの目、ひとみはまったく澄んでいて美しいですね。どうしてあのように透き通っているのか。きれいな水面が水底や周りの景色を映し込むように、そこに内外の森羅万象を映すのでしょうか。
次に印象的なのが、「遠いものを思い出すような」というところです。一度目は生まれて初めての心地よい体験、それがしっかりと記憶される。二度目に鳴ったときは、脳の記憶領域のサンプルと比較するんでしょうね。それが一致した瞬間、あの心地よい体験の記憶がよみがえる。
心地よいけれど、それは最初の体験ではなく一度体験したことのある心地よさだ。あの時は心地よかったなぁ。もちろんまだ言葉は知りませんから、情緒・情操の世界の心の動きでそう感じるのでしょうね。懐かしさを。
岡さんは、さらに話を敷衍して、その情操が文化というものを支えているのではないかとのべています。情操というものの堆積、経験の重層が個の中で生まれ、他者との交流により共通の一般的な価値に昇華していく。
さらに、事物や文字に転化され、それが時間の中で淘汰・洗練されていくと文化というものに結晶化してゆく。その大本が、人がまだ母の乳を飲むぐらいしか知らない幼少期の情操だと、岡さんは言っているのでしょうか。
言葉をおぼえたことで、人はどれほどの進化を遂げたことか、それは大きなものだと思います。
一方で幼少期の、まだ言葉と結びつかないころの情操の記憶を、人は過去にたくさん置いて来てしまったのかもしれない。岡さんの話を読んで、ふとそのように思いました。
‐―つづく――
※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。