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ババア☆レッスン(その12・あれから1年たちました)

 2022年12月末日。私の母が急死した。享年75歳。
あれから1年たちました。

 自宅で晩酌してた夜8時頃。
母方のいとこのおじさんから電話が入った。
このおじさんから電話をもらうのなんて初めてだったので「何だろう?」と思って出た所。「ヤエコさん(私の母)が、息してないんだけど」と言うではないか。
私の父からおじさんに「ヤエコがトイレに行ったっきり戻ってこなくて、様子を見に行ったら倒れていた」という連絡を受け、慌てて駆けつけたそうである。
「・・・息してないの?」と、私。
「してないんだよ」と、おじさん。
「んじゃそれ、死んでるって事だよね?」
「そうなるね」
 あっけにとられるほどの、見事な急死っぷりである。
何をどうやったらそんなに急に死ねるのか。涙も出てこない。逆に信じられなくて、笑ってしまった。
(てか親父、最初に電話するの、普通、救急車とか娘の私じゃないのか?まぁ私は東京住んでるから、すぐには何も出来ないけどさ)

 そんなわけでとりあえず、翌日、新幹線で帰郷。
崎陽軒のシウマイ弁当をほおばりながらの、ハイボールをグビグビ。
トンネルを抜けたら、そこは雪国。雪にまみれた東北だった。

 母の遺体はすでに、病院から葬儀場に移されていた。
さっそく、親戚に促されての母との対面。
まず最初に驚いたのは、母の髪の毛が、見事なまでに真っ白になっていた事である。グレイヘアなんてもんじゃない。
最後に会った3年ほど前は、まだ髪を染めていた。車椅子で美容院行ってた。それが今では、正真正銘の真っ白。
 そして、死に顔を見た時の、パッと見の第一印象が「なんか納得いってない顔してるな」であった。
 なにしろ生前は常々「お父さんより先には死ねない」が口癖の人だった。
「あんなめんどくさい人を、アンタ達に残してはいけないから」という事をよく口にしていた。だから私も、4歳下の弟も「父よりも先に母が逝く」なんて、これっぽっちも考えていなかった。
けれど現実はこうなった。
 そして、当の父はといえば、まるで、尻子玉でも抜かれたような顔をしている。「かなり仲の悪い夫婦」と思っていたが、相方が死ねば、やはり相当ショックらしい。まぁ、「急死」だったしな。
 とりあえず母の髪の毛を撫でてから、外にあった喫煙所でタバコを吸った。
「もしかして私も歳とったら、あのくらいきれいな白髪になれるかも?」
不謹慎にもそんな期待を胸に抱き、それからちょっと泣いた。

 その夜は、久々に実家で父と過ごした。弟はそのまま葬儀場に泊り込むようである。 
 私は近所のコンビニで買った酒を飲んでいたが、父は「何それ?」と眉間にシワを寄せたくなるような、超絶不味そうな謎の酒を飲んでいる。
 生前の母は、体が不自由とはいえ、家の中をいつもきれいにしていた。
しかし、コロナ渦を経て、3年ぶりに訪れた実家は、散らかり放題・荒れ放題。住人である父と母の内面を、そのまま表してるように思えた。
「こんな部屋で、母は晩年暮らしてたのか」
そう考えたら、胸の奥がギューっと千切れそうになった。

 父とは久々に喋ったけど、相変わらずクドくて面倒臭かった。
私が20代前半の頃には「お互いにビンタしあっての、取っ組み合いの大ゲンカ」をやらかした仲だ。「娘から張り手のビンタくらった事のある父親」ってそうそういないかもしれないが、私もあの時は、アバラにヒビが入った。ちなみにケンカの原因は「母がもらってきた子犬を飼うかどうか」。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
 結局何もする事がなく(片付けようとすると、何もするなと怒鳴られる)、それで外に出てひとしきりタバコを吸った、その直後。
タバコの火を雪で消そうと前かがみになったら、そのままでんぐり返しですっ転んで、思いっきり肩を打撲してしまったのである。
「・・・・まーた、やっちまった・・・」
やさぐれた気分で部屋に戻ったら、父が、べぇべぇ泣きながら誰かと電話で、母の話をしていた。

 翌日夕方に、通夜が執り行われた。
父は相変わらず、地蔵のように固まったままであったが、お母さんっ子だった弟の憔悴っぷりが、これまたひどかった。私と弟は色々あって、かれこれ20年以上絶縁状態だったのだが、この時ばかりは哀れに思えた。ずーっと体育座りで、膝に顔を突っ伏してる。
あまりのいたたまれなさに、喫煙所でタバコを吸ってたら、後を追うように弟もやって来た。そして二人で一緒に吸ってるうちに弟(49歳・中年)が、「お母さん死んじゃったよ」と、中学生男子のようなオーラを振りまきながら泣き出した。
「お母さん、体つらかったから、これで楽になったと思うよ?」
うっかりもらい泣きしそうになったが、顔を歪めてそれを堪えた。
そして何故か同時に「男はつらいよ」の寅さんのセリフ、「どいつもこいつもお通夜みたいな顔しやがって!!」を思い出していた。

 てなわけで、通夜も終わったその夜である。
通常、棺を安置した通夜部屋(というのか?)には翌日の葬儀まで、身内の誰かしらが、線香を絶やさぬよう泊り込むのが習わしらしい。
 荒れ果てた実家に戻るのが本気の本気で嫌だった私は、その役目を自ら引き受けた。
「今夜は私がここで、『一人で』お母さんを見守ります!!みんなは家帰っていいから!お父さん、それでいいよね!?」
「ああ・・・・」
これで一人、ゆっくりできる。通夜までの空き時間中に大雪の中、コッソリ近場のスーパーで用意周到、晩酌用の酒を買い込んどいてよかったよかった・・・・そうほくそえんでいたら、そうは問屋が卸さなかった。
親戚女性陣から一斉にブーイングの声が上がったのだ。
「なんで20年ぶりにようやく家族が4人揃ったのに、一緒にいないの!?」
「久しぶりなんだもの、最後なんだから一緒に過ごしたらいいじゃない!!」
・・・・・・女性陣、涙目で私にそう訴えかけてくるのだ。
いや、言いたい事はすごくよく分かる。しかし、家庭の問題はそれぞれだ。薄情だと思われるかもしれないが、私にはこんなふうに訴えかける奴らの脳内が、完璧にお花畑としか思えなかった。もう、ウンザリ。
しかし、「正論のブーイング」は全く止む様子を見せない。
それで結局、私は折れた。「わかったよ!!わかったわかった!!」(←もう、どういう立ち位置なんだか・・・・)
 女性陣に押されて何故私は折れたか。それはその通夜部屋が4L D Kほどの豪華さだったのである。ベッドが4つで布団も完備。風呂トイレ、台所までついている。だから「何か嫌になったら逃げ場はある」と思って、それで渋々了解したのであった。

 というわけでこうして、こじれまくってた「家族4人」が、20年以上ぶりに一緒になった。
父は叔母から「アンタ、今日だけは飲んでんじゃないよ!!」と釘をさされていたが、弟にコソコソと「日本酒買ってこい」と、おつかいを頼んでいた。
 生前は、母も飲むのが好きな人だったので、とりあえずグラスにワインを注いで祭壇に供えた。
 にしても「家族4人で酒を飲む」というのは、実はこの時が初めてだった。一体どうなる事やらと思っていたが、弟が「お母さんが悲しむような事を話すのはやめよう」と、びっくりするほどマトモな事を言うので、私と父はそれに従う事にした。
 特に仲良し家族でもない安彦家であったが(てかその真逆)、飲んでるうちに、それなりに思い出話がポツポツと出てきた。
私が小1の頃に汽車でキセルをした時の話から始まって、「初めて家族でスターウォーズ観に行ったよねぇ」「その時の映画館がボロッボロ」「お母さんが座席に座ろうとしたらシートがなくって、そのまま尻餅ついてたよね」「お父さんの本棚は昔から変だと思ってた」「江戸川乱歩とどおくまんの漫画が一緒に並んでた」などと、徐々に、信じられない事に、いつのまにかメンバー全員で腹を抱えて笑いあってたのである。

 そんな最中、ふと、私は棺で眠る母の顔が見たくなった。本当に唐突に。それでおもむろに、棺の顔部分の、観音扉の小窓を開けたら。
・・・・・・母の死に顔が嗤っていた・・・・じゃなくて、笑っていた。
明らかに、最初見た時の「納得いってない顔」ではなくなってる。
確かに、笑ってるような顔つきになっていたのである。弟も仰天して「これ、絶対笑ってる!!」を連呼。
「・・・・こういう事もあるんだねぇ」
 その後は皆で母の棺を囲んでの、ある意味斬新な「死んだ人も参加型の飲み会」となった。何度も何度も「ほんとにこういう事ってあるんだねぇ」を繰り返しながら。

 そして翌日、葬式が済んでからの出棺。
火葬場での待ち時間中、他の親戚はみな待合室で待機してたのに、父は、母を焼いてる炉の前から離れようとしなかった。
そんな父を見て私は「お父さん、本当はお母さんの事、すごく大事にしてたんだね・・・」と思ったかというとそうではなく、心中は「・・・まったく、生きてる間はケンカしかしてない夫婦だったくせによ!」と、舌打ちしてたのであった。

 ところで話は変わるが、実は私、子供の頃から怪談とかオカルトの類が大好きなのである。その流れでここ最近、元・火葬場職員で怪談師の下駄華緒さんの本「火葬場奇談」を読んでたものだから、この日は、火葬場という空間がいつにも増して興味深い場所に思えた。それで暇つぶしに場内をウロウロしてたら、2つ上のいとこのK兄ちゃんがロビーでスマホを眺めてるとこに出くわした。
このK兄ちゃんも子供の頃からオカルト好きで、遊びに行けばいつも「ムー」とか「つのだじろう先生の漫画」などを見せてくれたもんだった。
それで久しぶりに会えた事もあり、挨拶がてらK兄ちゃんに聞いてみた。
「ねぇねぇ、元火葬場職員で怪談師の下駄華緒さんて知ってる?」
K兄ちゃん、おもむろに私に、スマホの画面を見せてきた。
「あ、オレ今、下駄さんの本読んでたとこ」
火葬場で大爆笑になった。

 というわけでその日、葬儀&火葬の全行程を終了した後、私はそのまま東京に戻った。父の事は弟に任せて、私は、夕方6時過ぎの新幹線に飛び乗った。
「どうしてそんなすぐ帰るの〜、久しぶりに家族3人でお正月を過ごしたらいいじゃない〜〜」というブーイングがまた起こりかねない状況ではあったが、シレッとコソッと、私は帰宅の途についた。
やはり、私にとって家族ってやつはホントに、たま〜〜〜〜〜〜に会う程度でいい。
 年末の18時過ぎ、東京行きの新幹線はガラッガラであった。
さっそく座席に付いてるテーブルを手前に倒し、それよりも一回り以上デカい葬式用折詰弁当を肴に、ハイボールをグビーっと飲んだ、色んな事に思いを馳せながらグビ〜グビ〜・・・・・そして一瞬ウト〜ウト〜と眠りこけて、ハッと目を覚したら、窓の外にはもう雪はなかった。

 打撲してた肩が、ズキズキと脂汗が出るほどに痛くなったのは、正月過ぎてからである。それで1月4日になって、ようやく通常営業に戻った病院に駆け込み、レントゲンを撮ってもらっての診察。
医者の爺さんから開口一番、間の抜けた声で「あ〜た、鎖骨、骨折してるよぉ〜〜〜、全治3ヶ月!!」と言われた時には、泣き笑いの顔になってしまった。
 葬式の時もそれなりに痛かったけど、でもなんとかやり過ごせたのは、やはり気が張ってたからなのだろうか?

 あれから1年たちました。
父の認知症はどんどんひどくなる一方で、親戚一同、ケアマネージャーさん、そして私と弟、皆、激しく振り回されてる。
母が死んで間もない頃の私は、なんだかしょっちゅう泣いて怒っての繰り返しだった。けれど今は、絶縁してた弟とタッグを組んで、「父親のボケ」という人生の大波に立ち向かってる次第である。
なのでお母さん、心配せずに安らかに・・・・あの世でコロちゃん(犬)やロムちゃん(猫)と楽しく・・・・ワンニャンと一緒にこれ聞いて踊ってて!!

Michael Jakson   Thriller



 



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