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何度か起きて、本を読むなどしたが、また寝て、起きたときには6回裏になっていた、WBCの決勝。
野球のそれぞれは、なんの喩なのだろう、と思ってみる。
ボールをバットで打って、それが捕球されて塁に送られる前に、走り、塁に接地しようとする。アウト、セーフの判定を行う人物がいる。観客席までボールが飛ぶとその手続きがパスされる。走者、捕手、投手、打者。
当然、それぞれは喩ではなく、そのもの、それ自体でしかないのだけれど、それを見る我々は、ある抽象化をおこなって、それに一喜一憂しているように思われる。でなければ、おかしい。ボールを打って塁に出る一連の手続きは、普通の人生にとってみれば、つまり、朝、起きて会社に行き飯を食べ、昇給などがあり、家族を増やし、飯を食べて誰かが死んで、葬式を行い、あつい日にケーキを食べたりする人生にとってみれば、他人事にしか思えないからだ。それなのに、こんなに簡単に野球に感動してしまう。そしてそれは野球だけでなく、全てのゲームについてそう言える。
それが抽象性ということで、言や音楽や劇も、そうなのだった。
『悲しい曲の何が悲しいか」という分析美学の本があったが、その中で悲しい曲というのは悲しい気持ちになっている人の動作や声の出し方に似ているメロディや音階を持っている、という話があった、ような気がする。
いちばん最初の芸術は、多分、自然の模倣だっただろう。自然に何かの喩を見出そうとする。陽が昇ってはまた沈んでいく、これはなんの喩だろう。
今ちょうどジッドの『狭き門』を読み直しているのだが、庭の剪定といった日々の動作や、そよごの木が芝生に対してどんな位置にあるかといった自然物の配置が、それぞれ、神の国に至る狭き道においてはどのような意味を持つのか、主人公とその婚約者とが考え続ける。
あるいは、
主人公とその婚約者の会話が描かれた後に、情景描写が挿入される。
情景描写の挿入は、当然、作者の意図によってなされる。
が、古典的な意味での私小説においては、事実をただ並べて書いただけということも一応、当人の意識においては、有り得る(もちろん完全に客観的な情景描写は有り得ないのだが)
どちらの場合においても、僕らは、直前の会話と、情景描写の関係を読み取ろうとするだろう。
さらに、「だけど」を加えると、だけど、野球を見ている場合と同様に、それが、それ自体でしか、なくなる瞬間が出てくるのだと思う。ボールはボールに、走りは走りに、塁は塁に、腕は腕に。本当はそれが見たくて、野球を見ているのではないか、などと思っていたのだが、うまく書けなかったなぁ。
野球を見た後は、花見の続きをした。
酒を飲んだ。
カップヌードルを食べた。欧風チーズカリー味。
生ハムも食べた。
あつい。
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