見出し画像

マームとジプシー『書を捨てよ町へ出よう』 感想

 10月20日に観ました。感想を書きます。劇評とかじゃなく、思ったことをつらつら書くだけの、アレです。感想といっても、ほとんど自分語りなのでご注意ください。noteで牽制攻撃とかしないでください。では始めます。


✳︎

 「悔しい」

 観終わったあと、そう思った。

 最後の暗転から、カーテンコールのために再び明かりがついた。久々の光に驚いた眼に、涙が滲んだ。劇場からほっぽり出された眼。日常の光の中に戻っていく眼。夜の池袋の光、何千人の眼光が、何千軒の店の看板の光と交差する、ここが日常。


何してんだよ? 映画館の暗闇で、そうやって腰かけて待ってたって何もはじまらないよ。スクリーンの中はいつでも空っぽなんだよ。ここに集まっている人たちだって、あんたたちと同じように何かに待ちくたびれてんだな。「何かおもしろいことはないか」ってさ。  ──映画『書を捨てよ町へ出よう』冒頭


 演劇を観るとき、映画を観るとき、あるいは眺めているとき、僕は気楽だ。だって、座っていればきっと面白いことをしてくれるから。彼の新作舞台?じゃあきっと、面白いんだろう。自分は何の苦労もしないでお金だけ払って、どれどれ如何程のものなのか、お手並み拝見。
 世界に没入するもしないも、自分の勝手。どう思おうが、知ったこっちゃない。僕は僕の存在なんか意識せずに、劇場の暗闇の中の1人になって、無責任にスクリーンを、舞台を見つめる。

 だけど、今回、それが許されなかった。
 劇中、これが「劇」であること、つまり「作り物」であることが、役者のマイクパフォーマンスによって何度も強調された。そのたびに、この「作り物」を観ている現実の僕たち、観客の存在を、否応無しに意識させられた。
途中で挟まれる又吉直樹の書き下ろしコント。それを演じる役者たちは、もはや劇中人物ではない。文脈から完全に外れた現実の役者。劇の進行上、完全なノイズであるそのシーンによって、この劇が「作り物」であると同時に、紛れもない現実の劇場空間で行われている、今目の前で行われている、「出来事」なのだと意識させられた。
 コントの他、演奏担当のドラマーへのインタビュー、穂村弘による詩の解説、又吉直樹のモノローグ、ミナ ペルホネンのファッションショー、台詞に被る足場の組み立て音など、物語の進行を妨げる現実の様々な要素が、作品が物語という枠組みに閉じ込められることを拒み続けていた。
 演劇という行為が、虚構でありながら現実で行われているということ。それを観ている観客が、現実に居るということ。


何してんだよ? 映画館の暗闇で、そうやって腰かけて待ってたって何もはじまらないよ。スクリーンの中はいつでも空っぽなんだよ。

 映画版『書を捨てよ町へ出よう』の挑発的な冒頭シーン、その流れを汲み取る演出だった。高倉健が人を殺す映画を観て、自分も英雄になったかのような気分になる。そのとき自分に何が起こったのだろうか。
 映画が終わって灯りがつく。何もないスクリーンだけが残っている。映画館を出て、街へ出る。また日常に戻っていく。自分は何者だ?新聞の見出しに一度も名前の乗ったことのない「私」。高倉健とは程遠い現実。ちっぽけな父親から、ちっぽけな生活から、人力飛行機で脱出しようとする「私」は叫ぶ。
「一度しか言わないからよく覚えておいておくれよ。俺の名前は、俺の名前は、」

 僕はこの劇を観ながら、高校の受験期を思い出した。演劇部を引退し、芸術系大学への進学を諦め、医学部志望に戻した。医者になどなりたくなかった。かといって芸術の道に生きる自信も無かった。自分が何をしたいのか分からなかった。ロクに勉強もせず、塾に行くと嘘をついては、時間を潰すために映画館に通い続けた。
 映画を観ている間だけは楽だった。僕は僕という存在を失って映画の中に入り込んだ。何もない僕の人生に、何か面白いことが起きる気がした。しかし映画が終わって、何もないスクリーンを見つめると、また現実が戻ってきた。何にもなれない自分。18歳。何処へ、何処へ行くんだろうか。何処でもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは天才だけだ。僕は誰だ?誰が僕のことを知っている?俺の名前は、俺の名前は、

 あのときの自分に、そして今の自分に、もう一度「お前は誰だ?」という問いを突きつけるような芝居だった。

 寺山修司はこの世は一幕の舞台であると言った。人生を生き切りたい。演じ切りたい。「私」は、12月で19歳になる「私」は映画と現実の境が分からなくなり、銃乱射事件を起こす。虚構になりきれなかった「私」は現実の人を殺め、現実の独房に閉じ込められる。

 誰が「私」を見ているのだろうか。
「この世には詩人が1人だけいればそれで良い」そう言った寺山修司が、死ぬ間際、友人に「白紙でいいから2日以内に返事をくれ」と手紙を書いた。藤田は劇中で問う。「寺山さん、どうしてあの手紙を書いたんですか?」
 芸術が本気で社会を変えると信じられていた時代。寺山修司は若者たちのカリスマとして活躍していた。寺山の死後35年が経ち、ライスカレーはカレーライスになった。今、寺山修司を知っている高校生はどれくらいいるだろうか。映画で「私」を演じる当時の佐々木英明、映像出演している現在の佐々木英明、佐藤緋美演じる劇中の「私」、そして寺山修司本人の姿が重なる。叫びとなって。
「俺の名前は、俺の名前は、」

 藤田貴大はその叫びを聞き取り、この作品を作った。冒頭の眼球の解剖シーン。「光を見ているのは眼球ではなく脳である」寺山の『書を捨てよ町へ出よう』を「光」という視点で分解して再構築し、観客の眼球を通して脳内で像を結ばせる、今作品の方法論を宣言するシーンだ。(その方法論はそのまま、足場を繰り返し解体して組み立て直す演出方法にも現れている)その宣言通り、寺山のエッセイをそのまま体現した登場人物が、断片的な掛け合いを通じて、観客の脳内に像を結んでいく。緻密な人物描写などはされず、象徴的なセリフのみで微妙な関係性を示していく。例えば女性に海をプレゼントしようとして、バケツに汲んで渡すと「これは海じゃない、嘘つき!」と言われるシーン。寺山の詩的な感覚を、役者の身体と、演出の制御された視点移動によって表現し、れい子と近江さんの破局や、「私」のれい子への憧れなどの微妙なニュアンスを、言葉より饒舌に、かつスタイリッシュに分からせる。
 寺山修司のエッセンスを独自の方法論で再現し、そこに現代のコラージュを取り込み、完全に纏め上げた。寺山修司が死に際に出した手紙へのアンサーが、この芝居なのだと思った。今、ここで、芸劇で、『書を捨てよ町へ出よう』を上演する意味。作品としての強度はもちろん、公演としての確固たる強度を感じた。

 幕切れ、青柳いづみが発した台詞が、青柳いづみ本人の言葉なのか、それとも彼女が演じた役の言葉なのかを論じるのは野暮だろう。
「この世には女優が1人いればそれで良い!他はみんな嘘つき!」
 演出家は劇場に嘘の灯りをともす。芸術が社会を変えるとは、今はあまり信じられていない。それでも嘘の灯りを灯し続ける。嘘の灯りが消えて、現実の光に戻った時、そこにあるのは何もない舞台か、何もないスクリーンか。池袋の光の中を歩きながら、僕は涙が止まらなかった。悔しい。悔しい。僕は誰だ?俺の名前は、俺の名前は、

 あのときは寺山修司が、今は、今は誰だ?藤田貴大は今、この場に、寺山の言葉を蘇らせた。次は?次は誰が?

(2018.10.25)





いいなと思ったら応援しよう!