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ドレスコーズの新アルバム『式日散花』を聴いている。
ドレスコーズといえば、毛皮のマリーズを解散してすぐの頃は、マリーズの方が良かっただの言われていたわけだが、去年の『戀愛大全』あたりから新境地に入ったように言われている。
逆張りたいわけではないが、結局逆張りになるが、僕は最初からドレスコーズの方が良くなったと思っていた。
僕はだいたい何かを本気で言っているような人が苦手だ。明らかに嘘をついている人とか諦めとか冗談とか、そういうレイヤーが一枚挟まっている作品しか相手にしたくない。むさくるしいし、本当に本気で言っているとしたら馬鹿みたいだからだ。
ドレスコーズには最初からそれがなかった。

『戀愛大全』というあからさまなアルバム名からして分かるように、志摩亮平はこれらを少しも信じてはいない。僕らも信じられない。パターン化されたエモというが、パターン化されていないものがこの世にどれほど残っているだろうか。僕らはどれかを選んでイミテーションを生きるだけだ。変わっていくのは速度くらいなもので、時代に即したスピードがあり、音楽はそれに反応する。振り切れたようなスローモーションも経験済みだ。

僕が好きなのは特にこの『聖者』のMVで、これが『戀愛大全』の項目として並べられている。
頭の悪いようなひきこもりの男子校生が、バカみたいな力学で不良少女と恋に落ち、一夏の退廃的なラブロマンスに興じ、夏の終わりに騙されたみたいに不良少女がバイク事故でおっ死ぬ。悲哀に暮れてるんだが本当に分かってるのか、分からないような馬鹿馬鹿しさの中で火葬し、少女の幻影と夜明けの町へと繰り出して終わる。

この根本的に楽観的とさえ言えるような投げやりな気分と、そこに混じったある種の切実さは何かに似ていると思っていた。
それは安岡章太郎の『ガラスの靴』だった。

犬のスペックスはおどろいてガンガン吠えるし、この日僕はクルミの食いすぎで、頭が完全におかしくなった。

ガラスの靴 安岡章太郎

僕はこの世界がなんとなくとても悔しい。不当な扱いを受けていると思う。安岡も同じように感じていたはずだ。鬼のいぬ間に、せめて巫山戯たおして復讐してやろうという気持ちがこもっているように感じる。それを『聖者』にも感じる。

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