新チベット仏教史ー自己流ー
その3
最近では、洋の東西を問わず、インド仏教研究の際も、チベット文献を利用しない学者は、皆無と言ってよいのです。日本でその先鞭(せんべん)をつけたのが、上で触れた、長尾雅人氏の『西蔵仏教研究』でしょう。内容は、簡単ではなく、和訳を読んでもすぐに理解出来るとは思えません。しかし、その重要性にはすぐ気づくはずです。長尾氏が訳した「毘鉢舎那(びばしゃな)章」の中心議題は、中観派の分派の中で、どれが正統的であるかを論ずることにあります。章名の「毘鉢那」とは、サンスクリット語、ヴィパシュヤナー(vipasyana)の音写です。日本語でも「止(し)・観(かん)」という仏教語は目にしますが、このうちの観に相当します。瞑想(めいそう)の1種と捉えられことが多いけれど、無念無想を目指す瞑想とは一線を画します。サンスクリット辞典によれば、「仏教では、正しい知識」light knowledgeとあり、そのもともとの意味は「詳しく見る」to see in detaileとあります。現代的に言えば、「観察・吟味(ぎんみ)」です。実際、「毘鉢那章」では、超難解な議論が繰り返され、通常の瞑想のイメージとは異なります。もちろん、止・観の止を無視するわけではありません。前章は「奢摩(しゃま)多(た)」(=止)と題し、論じています。それを受けた形で、「毘鉢那章」は、以下のように始まります。
右すでに述べた如く、一〔境〕の所縁(しょえん)〈=対象〉に対して欲するまゝに心を安住して、そこに無分別なることを得、また同時に惛沈(こんちん)を離れ明顕であり、かつ勝れた利益(りやく)の〔果としての〕喜と楽とを具するのが奢摩多(samatha)である。然しかゝる奢摩多のみを以て十分なりとはしないで、さらに真実の義(tattva-artha)を無顚倒(むてんとう)〈=間違わずに〉に決定する般若(はんにゃ)(prajna)の智を起して、毘鉢舎那(vipasyana)を修習(しゅうじゅう)〈=学習〉すべき必要がある。若しそうでなく、かの三昧(さんまい)〈=止、心の集中〉(samadhi)のみで〔満足〕するならば、〔三昧は〕外道(げどう)〈異教徒〉とも共通するものであるから、彼等〔外道〕の道と同様に、たとえそれだけを修習しても煩悩の種子(しゅうじ)は断ぜられず、従って〔三〕有から解脱することとはならないからである。次の如く〈カマラシーラ作〉『修次初篇(しゅうじぎしょへん)』にも述べている。
その如く、所縁に対して心を堅固(けんご)ならしめ已(おわ)って、次に般若を以て観察をなすべきである。何となれば、智の光が生ずる時は、愚癡(ぐち)の種子は全く断ぜられるであろうから。・・・
(長尾雅人『西蔵仏教研究』1954年、p.101、現代語表記に改める、ルビ・〈 〉私)