仏教豆知識
その5
鈴木のいうように、真相は藪(やぶ)の中(なか)です。忽滑谷と木村との関係を知った上での、マスコミの捏造(ねつぞう)記事(きじ)の可能性は否定出来ないでしょう。鈴木と同じ雑誌に載(の)った忽滑谷の言葉は、そのような推測を許すものです。忽滑谷は言います。
『中外』日報に掲(かか)げたる小生(しょうせい)の意見といふは、先般(せんぱん)奥田氏の来りし節、
問う、木村博士の死につき如何(いかに)に感ぜらるるか。
予答ふ、学界の損失なり。
又問う、駒大へは如何(いかん)。
答ふ、是(これ)亦(また)前に同じ。
又問ふ、宗門(しゅうもん)に対しては如何。
答ふ、宗門は仏教学者の有無(うむ)によって盛衰(せいすい)するものにあらず。
古(いにしえ)より道(どう)学者(がくしゃ)の力に待つもの大(おお)し。木村君の死は此の方面の損害は比較的軽微(けいび)ならん。
以上問答極めて簡単に畢(おわ)りたり。(忽滑谷快天「小生の意見」『中央仏教』第14巻第7号、昭和5年7月、竹林史博『曹洞宗正信論争〔全〕』平成16年、p.728,ルビ私)これなどを読むと、雑誌が徒(いたずら)に捏造した事件であるとも見られるのです。しかし、忽滑谷に対する風当たりは強く、暴露話(ばくろばなし)めいたものも掲載されました。次の1文などはその最たるものです。
今日(こんにち)コソは動脈(どうみゃく)硬化症(こうかしょう)に罹(かか)り、余儀(よぎ)なく禁酒禁煙、肉食も余りせない様であるが、アレで若い自分、所謂(いわゆる)麻布(あざぶ)笄(こうがい)町時代には腕白(わんぱく)もので手にオイない男であった。酒は斗酒(としゅ)尚(なお)ほ辞(じ)せずと云(い)ふ風で、蒼白(そうはく)な神経質な顔色をしていて酒も飲めば、女も漁(あさ)ると云ふ、時々は品川や新宿辺(あたり)の青楼(せいろう)に沈没する事も珍しくはなかったのである。現に今の妻君の如きも、もとは弟子の仲亮宣(なかりょうせん)君と恋仲(こいなか)であったのを、横取りしたと云ふ程のツハ者で、之れは色と欲との両天秤(りょうてんびん)で、両者共成功した形ちである。事実は当時の『埼玉公論』に二三号に亘(わた)って詳細報道せられてある。…故に同君が如何(いか)に紳士面(しんしづら)をしたり、信仰家ぶっても『埼玉公論』の読者や、善(ぜん)仲寺(ちゅうじ)の内情(ないじょう)や其の家庭の状態を知った者から見れば紳士の風上に置ける人物ではない。…最後に一言するが、忽滑谷君が『中外日報』の記者奥田君に話した談話は、『中外』の記事よりも一層(いっそう)激烈(げきれつ)なもので、殆(ほとん)ど聞くに堪(た)へない位であったので、光山(みつやま)学監(がっかん)が平身低頭(へいしんていとう)して奥田君に記事を断然(だんぜん)掲載(けいさい)せぬ様にと懇願(こんがん)したと云ふ事である。それゆえ、奥田君は余程(よほど)緩和(かんわ)して、忽滑谷君が「仏教を破壊する者であって、毫(ごう)も興隆(こうりゅう)に役立ったとは信ぜられぬ」と云ったのを、「破壊する虞(おそ)れと緩和したと云ふ事を余(よ)は奥田君から直接聞いてをるのである。(城南隠士「忽滑谷君の為に惜む」『中央仏教』第14巻第10号、昭和5年10月、竹林史博『曹洞宗正信論争〔全〕』平成16年、pp.745-747,ルビ私)
現代の某(ぼう)週刊誌にも見られるゴシップネタの類いです。始めにいったように、これはあくまでも昭和初期の仏教界の1コマを瞥見(べっけん)するという意図しかありません。真剣な論争の究明は、また、別の話です。