Tips of Buddhism
No.46
A correct and adequate understanging of the Vaibhasika system is essential for the appreciation of the dialectic of Nagarjuna;for,it is mainly directed against the Vaibhasika system.( T.R.V.Murthi The Central Philosophy of Buddhism A Study of the Madhyamika System,Lodon,1955,p.69,ll.1-3)(Vibhasika「毘婆沙師」、Nagarjuna「龍樹」)
(訳)
毘婆沙師(びばしゃし)〔の思想〕体系の正確で適切な理解は、龍樹の論理的手法を正しく見極めるための基盤である。というのも、それ〔=龍樹の論理的手法〕は、主として、毘婆沙師〔の思想〕体系に向けられているからである。
(解説)
ムルティの『仏教の中心哲学 中観思想の研究』からの引用である。「毘婆沙師」とは、別名「説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)」とも言われる。いわゆる、小乗仏教を代表する部派である。インド仏教が消失するまで続いた。非常に有力な部派である。部派名「毘婆沙師」はサンスクリット語Vaibhasika(ヴァイバーシカ)に由来する。「分析家」「選別家」等を意味する。この派は『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』(Mahavibhasa、マハーヴィバーシャー)という文献を重んじるので、「毘婆沙師」と呼ばれたと言う説も有力である。一方の「説一切有部」はこの派が特異な時間論を説くことに由来する。彼らは「三世(さんぜ)実(じつ)有論(うろん)」を主張する。「過去・未来のものも現在のものと同等に存在する」という主張である。一見、奇怪な説に写るが、過去の鮮烈な印象や未来への熱烈な希望が、現実のもののようにありありと脳裡(のうり)に浮かぶということは誰しもが経験するであろう。「三世実有論」はその宗教版である、と思って欲しい。
さて、ムルティの意見は、至極(しごく)オーソドックスなものであり、多くの学者も賛同する。例えば、日本が誇るインド学者、中村元氏は、以下のように言う。
『中論(ちゅうろん)』の主要論敵は何といっても説一切有部であろう。(中村元『人類の知的遺産13
ナーガールジュナ』昭和55年、p.60)
更には,ロシアの学者、ローゼンベルグ(O.O.Rosenbrg)も、こう述べている。
竜樹(りゅうじゅ)の中論に於(お)ける論議を正当に評価しうるのも一切有部の理論をもとにしたこれらの
論書の理解があってこそである。何故ならば、竜樹即ち空(くう)論者(ろんしゃ)の論議こそ毘婆沙師に向け
られているからである。(佐々木現順『仏教哲学の諸問題』訳書p.51)
Vom Verstandnis dieser Werke,welche sich auf die Theorie der Sarvastivadins
grunden,hangt auch die richtige Einschatzung der Polemik des Nagarjuna in seinem Madhyamikasastra ab,denn die Polemic der Nagarjuna-Sunyavadins ist gerade gegen die Vaibhasika gerichtet.(ローゼンベルグ『仏教哲学の諸問題』O.Rosenberg,Die Probleme der buddhistischen Philosophie,Heiderberg,1924,p.37,ll.25-29)
一般的に、毘婆沙師は実在論的と評され、特に非実在論な「空」を説く者達の標的であっ
た。ただ、実在論といってもその的確な理解は困難である。毘婆沙師自身は、自分達の立場を単純に実在論としていたとは考えにくい。ともあれ、後代、勃興(ぼっこう)する大乗仏教の最大の論敵は、毘婆沙師であることは間違いない。それ故、毘婆沙師の思想を理解しなければ、それを批判した大乗仏教のこともわからないのである。