仏教論理学序説

その9

moderate realismに対するドレイフェス氏の懐疑的な評価は正しいのか?その真偽を探るためにも、現代の研究者の見解が必要である。いくつか拾い出してみよう。長崎法潤氏は、ダルマキールティのテキスト出版も行った信頼できる学者である。まず、氏の見解を見てみよう。長崎氏は、インド思想全体を俯瞰し、ダルマキールティの属する仏教論理学派の普遍論にコメントしている。次のようにいう。
 一般者〔=普遍〕の実在性を批判し続けたのはディグナーガ(Dignaga陣那四八○―五四○頃)をはじめとする〔ダルマキールティなどの〕仏教論理学者である。仏教の認識論においては一般者〔=普遍〕の実在を認めない。牛が知覚されるとき、その時、その場所でのみ見ることのできる特殊な色や形を本質とする牛の独自相が認識されるのであり、牛性という一般者〔=普遍〕の存在は知覚されない。さらに牛の独自相を認識した直後に牛の一般相をとらえる概念知が生ずるが、そのような一般者〔=普遍〕は実在するものではないと主張し、概念には必ず対応するものが実在するとするニヤーヤ、ヴァイシェーシカ学派の説を論駁した。(長崎法潤「概念と命題」『講座・大乗仏教9-認識論と論理学』昭和59年、pp.342-343,〔 〕内は筆者の補い)
ここからは、確かに、moderate realismに対する懐疑は芽生えてくる。しかし、もう1人の学者の見解と照らし合わせると、やや、奇妙な印象を抱かざるを得ないのである。赤松明彦氏は、ダルマキールティの普遍論に精通した学者である。氏は、ダルマキールティの普遍論の形成過程を論じ、以下のように述べている。
 思惟作用全般の対象領域とされる一般相は、多くの個物に共通する共通性=普遍であって、しかもそれは思惟作用によって仮構された概念に他ならず、実在ではない。これが彼〔=ディグナーガ〕の認識論における基本的な考えである。…ダルマキールティは以上のような〔ミーマーンサー学派の〕クマーリラの論述を批判しつつ非常に精緻な〔1種の普遍論たる〕アポーハ論を展開した。それは基本的にはディグナーガの所説を継承したものであるが、彼独自の発展をも見せている。…彼はその論述の中で、概念知の形成過程を詳論し、概念が外界の実在する個物を拠り所として生じてくることを明らかにするのであるが、ここに彼の概念論の独自性を見ることができる。すなわち、彼は、概念が外界の実在を拠り所とすると論じることによって、概念に実際的な真理性を与えようとしたのである。…上述のように、ダルマキールティは、認識作用及び思惟作用を実在との関連の中でとらえようとしている。これは、ディグナーガには見られなかった傾向である。(赤松明彦「ダルマキールティのアポーハ論」『哲学研究』54、昭和55年、pp.964-967〔 〕内は筆者の補い)
この記述から、moderate realismの可能性を感じる人がいても、驚くに当たらないように思われる。また、moderate realismを適用できないのは、厳密にいえば、ディグナーガであってダルマキールティには適用可能なのではないのか、という感想を持っても不思議ではない。ここに言われている実在への志向は、moderate realismの萌芽ではないのだろうか?とすれば、moderate realismは、それほど突飛なダルマキールティ解釈ではないことになろう。結局、不思議なことに、moderate realismは、長崎氏の論述を見れば不可、赤松氏の所説では可と、看做し得るのである。ドレイフェス氏は長崎氏寄りということになる。

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