仏教余話
その96
しかしながら、このような明確な対立点は、次第に有耶無耶になる。どう見ても、唯識派であるのに、これこそ、真の中観派である、と主張する、人々も現れたからである。詳細な学問的な解説は、後に譲り、ここでは、梶山雄一博士の、その辺りの事情を示す言葉を引用しておこう。博士はこう述べている。
形象〔=心の映像〕をもたない照らすはたらきとしての知識〔=心〕は、中観派の考える空の世界と内容的には異ならないと言ってよい。(梶山雄一訳「認識と論理」『世界の名著2大乗仏典』昭和42年、p.543の注(2)、〔 〕内は私の補足)
専門的にいえば、中観派と唯識派の間には、かなり複雑な事情があって、簡単には説明仕切れないことが多いのだが、とにかく、立川博士のいうように、唯識派は「仏教諸派のなかでもっとも複雑難解な世界観と実践理論を有している。」と、一般的には、目されている。
そのせいか、日本の教養人も、唯識の愛好家は多い。摩訶不思議なことを、如何にも理論的な意匠で語るので、人を幻惑するのであろう。唯識に見せられた1人に、昭和の文壇を代表する作家、三島由紀夫がいる。もう40年も前に、市ヶ谷駐屯地に乗り込んで、割腹自殺を遂げた人物である。45歳だった。その三島の最後の作品『豊饒の海』4部作は、「生まれ変わり」を主張低音とする不思議な小説である。三島は、この作品を書くにあたり、
唯識を取り入れた。ネットで「三島由紀夫と仏教」と検索すれば、たちどころに、膨大な資料に出くわす。つまり、このようなことは、最早、自明の理であるわけである。