新インド仏教史ー自己流ー
その5
もう少し、説一切有部の議論が、後に継承され、議論の彫琢があったテーマを紹介しましょう。『倶舎論』には、次のような難しい記述があります。
I.〔感覚は、1個の素材から生ずる場合と、多数の素材から生ずる場合がある〕この色・形たるものは多数である。そ〔の色・形〕において、ある時は、1つの〔色・形を〕素材(dravya,rdzas)として、視覚が生じる。その時は、その種類に対する識別がある。〔また〕、ある時は、多数〔の色・形を素材として〕〔視覚が生じる〕。その時は、〔種類の〕識別はない。例えば、多くの色彩と形態を有する軍隊の陣容や〔多くの〕山成す宝石を遠くから見る人に〔生ずる視覚は、一々の種類を識別して見ない〕ようなものである。聴覚等も、同様に見なすべきである。・・・
II〔アビダルマの伝統説を踏まえた反論〕そうならば、〔視覚等の〕5感は、〔個々バラバラな素材の〕集合したものを認識対象とするので、集合体を対象とすることになるが、〔5感は、本来、〕単体を対象とするのではないだろうか?
処(認識の集合体である源泉)としての〔単一な〕単体に関して、単体を対象とすると主張するが、〔集合している個々の原子のようなバラバラな〕素材としての単体〔に関して、単体を対象とすると主張するの〕ではないので、過失はないのである。(櫻部建『倶舎論の研究 界・根品』昭和44年、p.154の訳を参照した)
説一切有部では、伝統的に感覚は単体を把握するとされています。厳密な意味での単体とは、最小の存在である原子ですが、それを捉えることは出来ないと考えられています。そうすると、感覚は原子の集合体を把握すると見なさねばなりません。とすると、単体把握という伝統説を否定することにつながります。そこで、編み出されたのが、処としての単体です。つまり、原子の集合体を1固まりとして、その意味で単体であるとしたのです。例を挙げて考えてみましょう。サッカーのチームは、選手11人で成立します。チームとしては、単体です。しかし、個々の選手に焦点を合わせると、11人の集合体です。同じように、処という認識を生み出すチームとしては単体で、それを構成する原子1つ1つに合わせると、集合体なのです。このような議論を土台として、陳那は、感覚は単体を捉え、思考が集合体を把握するという解決策を示しました。そして、法称はさらに厳密化した理論を打ち出します。このように、説一切有部経由で、仏教論理学に議論が継承された例は、いくつもあるのですが、詳細ははっきりしません。梶山雄一氏の以下の言でも、それはわかります。
ディグナーガ・ダルマキールティなどのいわゆる仏教知識論学者がその著者のなかで展開している認識論が、どの学派の立場に属するものであるかは、ただ現在の学界でやかましく論じられているだけではなく、これらの書物に対する古代インドの註釈家たち自身が、さまざまに論じていたところでもある。問題はディグナーガもダルマキールティも、一方において外界非実在を主張する唯識派の理論をその著書において展開しながら、他方その他の議論においては、外界の実在性を認める経量部の立場でなければ考えられない理論をも提出しているところにある。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983年、p.40)
実態は不明なのです。
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