世親とサーンキヤ
その6
さて、テキスト講読の際は、従来説にとらわれないことが、重要と思われる。先に見たように、サーンキヤには分派が多く、『真理綱要』の著者達が論争相手とするサーンキヤ思想自体がそれほど明確なものではないからである。チャンキヤの記述からすれば、prakrtiとpradhanaは、分けて考えるべきなようにも思える。しかし、『真理綱要』序文の難語釈では、こういっている。
prakriti(rang bzhin)は、サーンキヤの構想したもので、純質(sattva,snying stobs)・激質(rajas,rdul)・翳質(tamas,mun pa)というエキス(rupa,rang bzhin)を持つpradhana(gtso bo)である。
prakrtih samkhyaparikalpitam sattvarajastamorupam pradhanam(G.O.S.,p.10,l.25、サンスクリット原文ローマ字転写)
rang bzhin ni grangs can gyis kun tu brtags pa’i rdul dang mun pa dang snying stobs kyi rang bzhin te gtso bo ‘o//(デルゲ版、Ze,141b/7-142a/1、チベット語訳ローマ字転写)
この記述からprakrti=pradhanaという従来の理解を導くことも可能だし、疑義を呈することも出来る。しかし、第14偈の「難語釈」には、以下のような微妙な表現がある。
更に、〔様々なものは〕それ〔楽等、即ちそれを生み出す3構成要素〕に必ず付随するということから、それ〔3個性要素〕を本質(maya,bdag nyid)とするprakrti(自性)から生じたものであることが成立する。そのことが成立する場合、暗に(samarthyad,shugs kyis)、このprakrti(自性)なるものは、〔様々なものの原料となる〕pradhana(根本原質)であることが成立する。〔つまり〕、根本原質は存在するのである。様々なものは〔根本
原質に〕必ず付随することが見られるからである。
tadanvayac ca tanmayaprakrtisambhutatvam siddham,tatsiddhau ca samarthyad ya
‘sau prakrtis tatpradhanam iti siddham asti pradhanam bhedanam anvayadarsanad
iti/(G.O.S.,p.21,ll.14-15)
de grub pa na yang shugs kyis rang bzhin gang yin pa de ni gtso bo yin no zhes bya
bar grub bo//gtso bo yod na tha dad pa dag rjes su ‘gro bar mthong pa’i phyir ro//(デルゲ版、Ze,151a/2-3)
ここでは、prakrtiはpradhanaと区別されていると解釈出来る。なぜなら、「prakrtiは3構成要素(guna)を本質として、始めて、pradhanaという質料因となる」と読めるからである。とにかく、安易に両者をイコールで結ぶのは危険である。サーンキヤには分派が多いので、同じとする派も,違うとする派もあると考えるのが、慎重な態度であろう。とにかく、『真理綱要』の中では区別されている可能性を頭に入れて読解を進めたい。繰り返すが、シャーンタラクシタやカマラシーラが論争しているサーンキヤはどのようなものか明確ではないのである。実際にテキストを検討している本田氏も、次のような興味深い指摘をしている。
尚この〔『サーンキヤ頌』にある〕頌の各語に関するカマラシーラの叙述は、古註のものと等しく、〔代表的な注釈である〕ヴァーチャスパティミシュラのものと異なる。(本田惠『サーンキヤ哲学研究』上、昭和55年、p.260の注(16))
また、グラノフ(P Granoff)氏の最近の研究では、次のように言われている。
以下で論ずるように、〔サーンキヤに対する〕定型化した反論と呼んでいるものをジャイナ教徒は提示するのだが、彼らは、『真理綱要』とその『難語釈』から、大きく、〔反論の内容を〕借り受けているのである。この〔『サーンキヤ頌』第9〕頌の解釈のケースで、彼らがそうしたことは、絶対、疑いようがない。『真理綱要』とその注釈は、この点について、真諦に最も近いように思われるが、〔第9頌の〕理由5の解釈の謎は、未解決のままである。(Refutation as Commentary:Medieval Jain Arguments against Samkhya、Asiatische Studien Etudes Asiatiques LIII・3・1999、p.581の注5)
ここからは、真諦の漢訳したサーンキヤ注釈書『金七十論』と『真理綱要』の関わりという魅力的なテーマが伺われるし、合わせて、『真理綱要』のサーンキヤ批判が、ジャイナ教徒の論議にそっくり引用されている事実も、見えてきて、考察の広がりが期待される。更に、『真理綱要』「難語釈」には、世親(Vasubandhu)の失われた反サーンキヤ論書『七十真実論』(paramarthasaptatika,don dam par bdun cu pa)が引用されているといわれ、興味をそそられるのである。たった1偈だけが、世親の『七十真実論』からの抜粋と推測されている。しかし、これも状況証拠をつなぎ合わせただけの推測に過ぎず、偈の訳にも検討の余地は多い。厳密な講読を行うとすれば、訳していける分量も僅かであろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?