「倶舎論」をめぐって

XXXIV
大分、横道に入ったが、ローゼンベルグに戻ろう。ローゼンベルグの憧れた日本の伝統は、今も生きている。京都を中心に行われている『倶舎論』の原典の翻訳作業は、そのような伝統の中でなされたのである。私は伝統的な『倶舎論』研究、「倶舎学」とでも呼ぶ方面には暗く、漢訳物を読むのも得意ではない。それらにも、注意を向けなければならないことは、先の考察でも感じることは出来たが、如何せんまだ、扱える状況にはない。ちなみに、この倶舎学という言葉の由来について、櫻部博士はこう述べている。
 まず、「倶舎学」という言葉について思うのだが、この語がふつうに使われるようになったのは多分そんなに古いことではない。おそらく大正期以後あるいは昭和時代になってからではなかろうか。深浦正文博士に『倶舎学概論』の著がある(昭和二六年、百華苑)が、これが書名の中に、「倶舎学」の語が現われた最初であろう。以前は「倶舎学をやる」などとは言わず、単に、「倶舎を学ぶ」とか「倶舎論を学ぶ」とか言ったもののようである。(櫻部建「大谷大学の倶舎学の伝統について」『仏教学セミナー』70,1999,p.37)
私は、倶舎学という呼称が、伝統的な『倶舎論』研究の呼び名であると、思っていたが、それは誤解であったようである。深浦正文博士は、伝統的な法相宗の学問に通じた著名な学者である。博士の『倶舎学概論』に対しては、もう1人の著名な『倶舎論』学者舟橋一哉博士による批判があるので、蛇足ながら、紹介しておこう。
 この小論の目的は『倶舎学概論』を批評紹介することではなく、私自身が日頃、倶舎論の或る教義に関して疑問を抱いている、その不審の点を素直に述べて、深浦博士はじめ先輩諸先生の教えを乞い、併せて従来の解釈が甚だしく混乱しているような場合、私が正しいと信ずる説は斯く斯くである、ということを言おうとするものである。(船橋一哉「倶舎論の教義に関する二三の疑問―深浦正文著『倶舎学概論』を読むー」『大谷学報』31-2,1952,p.32)
こうは述べているが、舟橋博士の舌鋒は鋭い。博士はいう。
一般的に言って、本書は我が国の(泰西に於ける研究は勿論のこと)、新しい研究成果に対して殆ど注意が払われていない憾みがある。一例を引くならば、現存の四阿含をもって一括して直ちに有部の所伝であるかの如き(『概論』七頁)、その最も著しい例である。現存の四阿含が一括して有部の所伝であるということに対して、疑問を抱いた最初の人は恐らく美濃の法幢であろう。彼は今から二百年以前、宝暦年間、二十四歳で『倶舎論稽古』を著して、現存の長阿含は化地部の所伝、現存の中阿含と雑阿含は有部の所伝、現存の増一阿含は大衆部所伝と決定した。この説は今日と雖も、長阿含以外は大体に於いて肯定せられている。これらのことに関しては、赤沼智善教授の勝れた論証研究があって、『仏教経典史論』に収められている。『概論』の批評的史眼はこの点で実に法幢以前のものであり、日本の仏教学界を宝暦以前まで逆行させていると非難されても、弁解の余地はないであろう。(船橋一哉「倶舎論の教義に関する二三の疑問―深浦正文著『倶舎学概論』を読むー」『大谷学報』31-2,1952,pp.32-33)
舟橋博士の批判は、このように激烈なものである。一言深浦博士を擁護すれば、深浦博士は、あくまでも、法相宗の伝統を踏まえた学者であり、そのスタンスに立って、発言するのであれば、近代的な成果と矛盾しても、その学的価値は充分あるとは思うのである。さて、舟橋博士が名を挙げた法幢については、櫻部博士も言及している。
 中でも、『倶舎論稽古』二巻(大正 第二ニ五二)は最も注目すべきものであろう。法幢(一七四○―一七七○)は孤高の天才(高倉学寮に学んだ人ではない)〔高倉学寮とは大谷大学の前前身〕。この書を遺したのみで夭折したから、出自・経歴も人の知る所ではなくなっていたのを、美濃の大谷派末寺の出と確かめたのは船橋師である。(櫻部建「大谷大学の倶舎学の伝統について」『仏教学セミナー』70,1999、p.38,〔 〕内私の補足)
さらに櫻部博士の法幢に対する言を付加しておこう。
 この時代、諸宗の宗学がいっせいに勃興したが、ことに倶舎・唯識の学、当時のことばでいえば性相の学、は伝統も古く、最も活発な展開を示した領域の一つである。深い学識と魅力的な個性のある学僧が、この分野に輩出した。美濃の法幢はおそらくその第一人であろう。彼は二十代半ばで世を去った夭折の天才である。不明であったその出自を捜り出したのは故舟橋水哉教授である。それによれば彼は美濃大垣在の末寺に生を享けた。その学的活動は宝暦年中のおそらく数年に過ぎないが、彼の遺した『倶舎論稽古』二巻は、倶舎論のごときアビダルマ論書を読むに阿含教典の正確な知識が不可欠であることをわれわれに教え、漢訳大蔵経中に存する阿含教典が個々別々な部派の伝承した所であるという事実にはじめて注目しそのいかなる部派かを究明した点で、こんにちにもその学的生命を失っていない。(櫻部建「アビダルマ論書雑記一、二(三)」『毘曇部第十四巻月報 三蔵』106、昭和50年、p.106)
天才とまで評される法幢の『倶舎論稽古』を、私は手に取ったこともない。私は、漢文をベースとする『倶舎論』研究には暗く、そのため「古き倶舎学」などと銘打って、考察してみたこともあるが、その方面に対する素養は不足している。それら漢文の注釈等については、概説的な情報を、後に提供することにしたい。注釈群の説明に入る前に、もう少し、『倶舎論』を取り巻く状況を述べておこう。これは始めに論じるべきことなのかもしれないが、『俱舎論』全体の構造を考えてみたい。


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