「倶舎論」をめぐって

LXXXXVIII
更に、サーンキヤ思想を基軸に、仏教にも関心を示す、村上真完博士の「「無常説と刹那滅の基礎概念」印度学宗教学会『論集』28,2001,pp.1-24,同「刹那滅説の基礎」『印度哲学仏教学』17,2002,pp.62-77は、『倶舎論』に的を絞って、有益である。村上博士は、最初の論文では、第2章「根品」で論ぜられる、有為相(samskrtalaksana)に焦点を当て、2番目の論文では、第4章「業品」で扱われる「滅無因説」に的を絞る。博士は、第1論文の序で、こう述べている。
 右の主張(滅無因説にもとづく刹那滅説)は、早島理(「無常と刹那―瑜伽行唯識学派を中心にー」(一九八八『南都仏教』五九号一 -四八ペーージ)やロスパット前掲書によれば、瑜伽行派において構想され追及されたものである、という。しかし今は、世親(四―五世紀)の『倶舎論』…の議論を辿り、その基礎にある思考法を求めるところから出発したい。なぜならば、同論は従前の説一切有部(有部)の学説を巧みに要約した上に自説を構築し、体系的な思考を推し進めているだけでなく、その学説の影響するところもより大きい、と考えられるからである。(村上真完「「無常説と刹那滅の基礎概念」印度学宗教学会『論集』28,2001,p.2)
と述べ、以下のように結論付ける。
 思うに、不変恒常な物体や物質が存在するというようなことは、個々の知覚からは確認できないのであって、瞬間的な個別的知覚を総合し、経験を総合する(分別)によって可能になる。瞬間的でない永遠なもの(物体、物質)というのは、いわば思考の産物である。そういう思考の産物を排除するなら、瞬間的な個々の知覚と思考とが残ることとなろう。世親が展開する刹那滅論は緻密な論理的思考から成るが、知覚を重視し極度に思弁の所産を排するのではないか。(ibid,p.20)
博士の見解には、首肯できない面もあるが、是非参照すべき論文であろう。付け加えると、有為相に関する衆賢説を扱う書にコレット・コックス『ダルマ論争:初期仏教の存在論』Colletto,Cox;Disputed Dharmas:Early Theories on Existence,1995,Tokyoがあり、見過ごすことは出来ない。コックス女史はpp.133-158で四相を論じ、加えて、pp.305-376に渡って、衆賢『順正理論』に説かれる四相の英訳注研究を行っている。女史は、四相論述の結論部分でこう述べている。
 有為の四相に関する衆賢と世親の対立は、彼らの異なる存在論的観点を浮き彫りにしている。衆賢にとって、四相は、はっきりした能力を持った状態として、個々の実在ととして必ず存在している。…世親にとって、四相は、抽象的、あるいは、仮有であって、独自の機能は持っていないのである。(ibid,p.148)
よく目にするような記述だが、詳細に世親と衆賢の原典を読み込んだ上の発言なので、重みが違う。同書の謝辞によれば、女史は、東大、龍谷大等で、著名な倶舎学者の指導を受けている。しっかり研鑚を積んだようである。また、那須円照「滅に関する経量部・有部・正量部の対論」『神子上恵生教授頌壽記念論集 インド哲学仏教思想論集』pp747-765も、参考になる。更に、吉水千鶴子「恒常なものはなぜ無能力かー刹那滅論証の理論的背景―」
『印度学仏教学研究』48-1,平成11年、pp.377-373は、ダルマキールティに力点を置くが、俯瞰的視点が示され、これも役立つ。

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