仏教豆知識
その6
忽滑谷という人物はゴシップネタで取り上げられるような胡散臭(うさんくさ)い人ではないように思われます。ただ、並はずれた反骨(はんこつ)精神(せいしん)を持った人ではあったようです。忽滑谷は、昭和9年、68歳で亡くなります。
この論争を冷静に判定した永井政之氏の言葉を引用してみましょう。
約一年間にわたる正信論争が、教団的にみていくつかの成果を挙げたことも事実であるが、両者あるいはその派下(はか)の人々が、歩調をととのえて宗(しゅう)意(い)安心(あんじん)の明確化に努力した事実を寡聞(かぶん)にして聞かない。個人の内面としてはともかく、行(ぎょう)の側に立つ人々と、解(げ)の側に立つ人々とは、乖離(かいり)こそすれ、融和(ゆうわ)することは至難(しなん)のことなのかも知れない。ただ、いかに「信」があったにせよ、行がなければ、それは曹洞宗の宗意安心とは縁遠いものとなろうし、いかに行があったにせよ、学がなければ、時代性社会性において説得力に欠けることは言うまでもないことを確認しておきたい。(『曹洞宗選書 第八巻 教義篇 正信論』昭和五六年、pp.550-551)
論争の本質は、実践と理論の争いですが、これは今日でも解決されていない根の深い問題なのです。以上の話では、忽滑谷快天という人物について、悪いイメージを抱きかねません。そこで、「正信論争」を離れ、彼について知ってもらいましょう。忽滑谷は、慶応出で、英語に堪能(たんのう)でした。彼は、その英語力を生かして、『侍の宗教』という書を英文で著していま
す。その1部を引用してみましょう。
The object of this little book is to show how the Mahayanistic view of life and of the world differs markedly from that of Hinayanism,which is generally taken as Buddhism by occidentals,to explain how the religion of Buddha has adopted itself to its environment in the Far East,and also to throw light on the existing state of the spiritual life of modern Japan.( Kaiten Nukariya;The Religion of the Samurai a study of Zen philosophy and disciple in China and Japan,London,1913,p.xix,ll.8-14)
欧米人は、一般的に、小乗を仏教と捉えているのだけれど、この小著の目指すところは、大乗の生活観・世界観は、小乗のそれと全く異なっている様子を示すことである。つまり、ブッダの教えを極東の環境にどのように馴染(なじ)ませたかを説明することなのである。更に、近代日本の精神生活が今ある状態に、どのように、光を投げかけてきたかを説明することなのである。(私訳)
禅を世界に広めようとして書いたものが、『侍の宗教』です。忽滑谷は、以下のように禅を伝えています。
The historical importance of Zen can hardly be exaggerated.Afte its introduction into China in the sixth century,a.d.,it grew ascendant through the Sui(598-617)and the Tang dynasty(618-906),and enjoyed greater popularity than any other sect of Buddhism during the whole period of the Sung(976-1126)and the Southen Sung dynasty(1127-1367).In these times its commanding influence became so irresistible that Confucianism,assimilating the Buddhist teachings,especially those of Zen,intoitself and changing its entire aspect,brought forth the so-called Speculateive philosophy.And in the Ming dynasty(1368-1659)the principal doctrines of Zen were adopted by a celebrated Confucian scholar,Wang Yang Ming,who thereby founded a school,through which Zen exercised profound influence on Chinese and Japanese men of letters,statemen,and soldiers.
As regars Japan,it was first introduced into the island as the faith first for the Samurai or the military class,and moulded the characters of many distinguished soldiers whose lives adorn the pages of her history.Afterwards it gradually found its way to palaces as well as to cottages through literature and art,and at last permited through every fibra of the national life.It is Zen that modern Japan,especially after the Rosso-Japanese War,has acknowledged as an ideal doctrine for her riging generation.( Kaiten Nukariya;The Religion of the Samurai a study)
禅の歴史的重要性は、言い尽(つ)くせないほどである。6世紀に中国に導入されて以来、隋(ずい)、唐(とう)朝を通じて、優勢になっていった。更に、宋(そう)と南宋(なんそう)朝の全期間、他のどの仏教宗派よりも、益々盛大なる人気を享受(きょうじゅ)したのである。その時代、圧倒的な影響力は、あまりに魅力的で、儒教(じゅきょう)は、仏法、就中(しゅうちゅう)、禅の教えを自身と同一視し、全体的な外貌を変え、所謂(いわゆる)「思索的哲学」をもたらしたほどである。そして、明(みん)朝では、禅の原理は、著名な儒者、王陽明(おうようめい)に取り入れられた。彼は、学派を作った。その学派は、禅を通して、中国や日本の文人・為政者(いせいしゃ)・武士に深く影響したのであった。
日本についていえば、禅は、当初、1番に侍、または武士階級の信仰として、この島国にもたらされた。多くの際立った武将の人格を形成し、彼らの生き方は、日本史のページを彩るものである。後に、次第に、文学や芸術を通して、四阿(あずまや)のみならず、宮廷にも、道を見出し、最後には、国民生活の全精髄(ぜんせいずい)と認められたのであった。取り分け、日露(にちろ)戦争(せんそう)後、近代日本は、日本の登りいく世代の理想的教えと、認識している。それが、禅なのである。(私訳)
熱意を込めて記した『侍の宗教』は、残念ながら、和訳されていません。