仏教余話

その157
この『小空経』は、中観派の注意を引いたらしくは見えないが、瑜伽行派の論書では、この経に対して特別な重要性が付与されている。まず『中辺分別論』はその一・一に「虚妄分別」(abhutaparikalpa)と空性(sunyata)の間の関係を説いているが、そこでは我々の日常生活の現実の姿が、虚妄分別として把握されている。虚妄分別とはすなわち見る主観(能取grahaka)と見られる客観(所取grahya)の二要素が分けられ、それらに執着して
いることである。これらの二要素は、認識とか分別とかにとっては欠かせぬものではあるが、何ら実在性のあるものではない。この意味において、空性とは、その「虚妄分別が空性」なのである。(「虚妄」という修飾語はそれが「虚妄なる」すなわち「空なる」ものを弁別するから、付加されて虚妄分別という。)しかし同時にこの「虚妄分別」は、空ではあるけれども、決してその機能を停止するものではない。従って、「虚妄分別」は再び「空性」
のうちにおいて現れるのである。〔abhtaparikalpo’sti,dvayam tatra na vidyate/suyata vidyate tv atra,tasyam api sa vidyate//〕このやや屈折のある議論は、次の頌一・二で、少し異なった視角からくりかえされる。「それゆえに、すべてのものは単に空なのでもなく、単に空でないのでもない。これは(「虚妄分別」が)存在するからであり、(主観・客観の二つが)存在しないからであり、さらに(虚妄分別中に空性が、また空性中に虚妄分別が)
存在するからである。この全過程が中道と呼ばれる)」〔na sunyam nasunyam tasmat sarvam vidhiyate/sattvad asattvat asattvac ca,madhyama patipac ca sa//〕と。


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