「倶舎論」をめぐって
XXXVIII
『大毘婆沙論』には、以下のような議論がある。
質問する。「どうして知覚が集合体(共相)を対象とするのか?5知覚は単一体(自相)を対象とするのだから」。答える単一体には2種あるのである。1つは事実上の単一体(事自相)2つ目は認識を生むもの(処)としての単一体である。もし、事実上の単一体によるとすれば、知覚は集合体を認識していることになる。もし、認識を生むものとしての単一体によるとすれば、知覚は単一体を認識していることになる(大正新修大蔵経、65a)
この部分は、自相・共相という仏教論理学のキータームを考察する上でも、極めて重要な個所である。後に、ディグナーガが『集量論』で「自相は知覚の対象、共相は判断の対象」と宣言したのは有名だが、彼は、は分別(vikalpa)を導入して問題の解決を計ったとされている。しかし、ディグナーガ以降、ダルマキールティもこの問題を論じているのだから、ディグナーガの時点でも課題は残されていたのだろう。1例として、ダルマキールティ以降の著名な学僧カマラシーラ(Kamalasila)の『真理綱要難語釈』Tattvasamgrahapanjikaを挙げておこう。 以下のように述べている。
つまり(hi)、その単一体(自相)自体(eva)は、〔例えば、壺の場合、壺と種類が異なる指輪等の〕異種類のものから排除され、〔別の壺のような同種類に共通する〕同じ(abhinna)映像(akara)を有する観念(pratyaya)の原因であるのだから、論書では、集合体(共相)といわれている。なので、それを把握するヨーガ行者の知は、習修の力によって、〔論書でいう共相の〕明瞭な顕現(sphutapratibhasa)を起こしているのだから、〔結局〕、単一体(自相)を領域(gocara)としている、と見なして、絶対に(eva)、矛盾はない。
tad eva hi svalaksanam vijatiyavyavrttam abhinnakarapratyayahetu-
taya sastre samanyalaksanam ity ucyate,atas tadgrahakam yogijnanam
bhavanabalena sphutapratibhasam utpadyamanam svalaksanagocaram evety
aviruddham etat(read.eva)-(ed.by S.D.Sastri,1997,vol.2,Bauddha Bharati
Series 2,p.781,ll.3-5、サンスクリット原典ローマ字転写)
この記述に対し、船山徹氏は、こう述べている。
この解釈の当否はともかく、ここで、独自相〔=自相〕と一般相〔=共相〕の区別が極めて微妙であることは確かであろう。(船山徹「カマラシーラの直接知覚論における「意による認識」(manasa)」『哲学研究』569、平成12年、p.120、〔 〕内は筆者の補足)
恐らく、自相・共相に対するディグナーガ的な解釈、つまり、前者は、全く非概念的対象であり、後者のみが概念的対象であるとする見解も再考察する必要があるだろう。私は、全く非概念的対象などあり得ないと考えている。これについては、立川武蔵氏の発言も参考になるだろう。氏はこう言う。
「ラクシャナ」〔laksana〕〈相〉とは元来は牛などの財産の目印のことであったといわれ、視覚からの情報に基づいた概念である。(立川武蔵「『倶舎論』における界について」『印度学仏教学研究』57-1,2008,p.7、〈 〉内私の補足)
また、宮元浩尊氏は、次のように言う。
バーヴィヴェーカの直接知覚は、ディグナーガによる直接知覚の理解と一致し、さらに直接知覚による認識は、『倶舎論』に説かれた自性分別を生じさせる認識であることが明らかになった。(宮元浩尊「ヴァーヴィヴェーカによる直接知覚と自性分別―『大乗掌珍論』を中心としてー」『印度学仏教学研究』56-2,平成20年、p.894)
ここには、全く分別を含まない知覚など、ディグナーガも承認していないことが記されている。このような問題で参考となる論文に、谷沢淳三’Perception in Indian Philosophy-Is Nirvikalpakam Pratyaksam Possible?’『南アジア研究』7,1995,pp.1-13がある。これらの研究は、比較的最近のものであるが、従来の解釈は、異なっていた。例えば、長くディグナーガを研究している桂紹隆氏は、概説書においてこう述べている。
知覚は個別相〔=自相〕のみを、推理〔=概念〕は一般相〔=共相〕のみを対象とすると、両者を峻別した点に、ディグナーガの独自性がある。」(桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9認識論と論理学』昭和59年、p.106、〔 〕内私の補足)
続けて、桂氏は、アビダルマとディグナーガの差異を考察して、かく言う。
ディグナーガの理解する個別相と一般相が、アビダルマの見解と必ずしも一致しないことは注意されねばならない。ディグナーガは、個別相について、「そのものとして認識されるべきであり、言語表現されえぬもの」と述べるにすぎない。…アビダルマの個別相は、それが「堅さ」等と同定される以上、ディグナーガにとって一般相に他ならない。ディグナーガの個別相は、あくまで概念化・言語化を拒絶する存在である。(桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9認識論と論理学』昭和59年、p.107、アビダルマに関する桂氏の発言の出典については、木村誠司「svalaksanaとsamanyalaksanaについて(1)」『駒沢短期大学仏教論集』5,1999,pp.314-313参照)
本当に「ディグナーガの個別相は、概念化・言語化を拒絶する存在」なのだろうか?私は、非常に疑問に思っている。