世親とサーンキヤ
その12
高木訷元博士は、後に勃興する仏教論理学を見据え、「雨衆外道」の果たした役割を、当時のインド思想界に位置づけてみせた。博士は、次のようにいう。
世親、陣那による佛敎論理學の發展以前には、數論の認識説が有力であつたとみられる。このような思想的背景を考慮するならば、五世紀から六世紀にかけて、陣那と同じような現量説〔=現量除分別〕を説く數論師が存在したとしても、何ら不都合はないわけである。ここで、我々はVarsaganya及びその學派、就中Vindhyavasinと瑜伽疏〔=『ヨーガ・スートラ』のヴヤーサ注〕との密接な關係について顧慮すべきである。Frauwallner及びP.Chakravartiなどによつて指摘せられた如く、瑜伽疏はその數論説を多くVarsaganya派、特にVIndhyavasinに負つている。また瑜伽疏と佛敎、特に有部との關係が密なることも、すでに早くから指摘せられてきた。しかし、この兩者の深い關係が如何なる理由にもとづくものであるかについては、從來殆ど顧みられなかつた。この點について、筆者は一つの推論を試みたことがある。皍ち、瑜伽疏が有部の所説に依據した如く見えるのは、實はVarsaganya派の見解を媒介素地としていたと思われるのである。このように、瑜伽疏にとつて、Varsaganya派の占める位置は極めて重い。したがつて、また當面の問題たる疏の認識論も、これを陣那からの影響とみるよりも、むしろ、Varsaganya派、殊にVindhyavasinの所説にもとづけるものと考える方が、一層妥當的である。…前述の如く、自相、共相の設定も、現量除分別の主張も、決して陣那自身の獨創ではなく、また除分別にして錯亂に非ずとしたのも法稱の創見ではない。かように見てくるとき、インド論理學、或は廣くインド思想史上に占めるVarsaganya,Vindhyavasinの地位は極めて重要なものと云わねばならない。しかし、全く遺憾ながら、かれらの思想はその一端を僅かの斷片を通じて知りうるのみである。また倶舎論などにみられるかれらの思想的立場などからして、かれらが數論偈〔『サーンキヤ頌』〕以後の所謂古典數論からは、その師資相承の系譜からはずされ、或る場合には非難を加えられている事実も、かれらの思想的立場を知る上に興味深い問題をはらんである。(高木伸元「瑜伽疏と陣那との關係再考」『印度学仏教学研究』13-2,昭和40年、pp.80-81,〔 〕内私の補足)
これで、「雨衆外道」の思想的重要性や広がりの一端は、理解出来たと思う。合わせて、『倶舎論』解読、世親思想究明にサーンキヤ思想の考察が欠かせないことが、幾分でも、理解出来たと思われる。現在、学会の趨勢は、サーンキヤの新出資料『論理の灯』Yuktidipikaや、ジャイナ教の文献『12輻観点輪』Dvadasaranayacakraその注釈『理経随論 12輻観点輪注』Nyayagamanusarini Nayacakravrttiに散在する「雨衆外道」説を渉猟することにある。これらサンスクリット語資料の考察は欠かせないものであろうが、前回も触れたように、チベット語資料を活用するような動きはない。チベット文献をサーンキヤ思想、そして引いては、仏教思想の解明に活用していくためには、それらの文献が多く依存したと推測される『真理綱要』及び「難語釈」の講読が第1歩となるのである。
ここで、度々言及される、有名な世親伝(真諦訳『婆藪槃豆法師伝』)の中で、特に、「雨衆外道」との関わりを示す下りを紹介し、未解明な部分の多いサーンキヤ思想の問題点に触れておきたい。
仏の滅後、900年に至って、他学派のヴィンドゥヤヴァーシン(頻闍訶婆娑、Vindhyavasa)という名の者がいた。これ〔ヴィンドゥヤ、頻闍訶〕は山の名である。ヴァーシン(婆娑)は「住む」と訳せる。この他学派の者が、この山に住んでいることに因んで、名付けた。龍王がいて、ヴールシャガナ(毘梨沙迦那、Varsagana)という名であった。頻闍訶山の下の池の中に住んでいた。この龍王は、よく、サーンキャの学説(僧佉論、samkya-darsana)を理解していた。…〔龍王は〕、それ〔ヴィンドゥヤヴァーシン〕の聡明さを喜び、サーンキャの学説を語った。…他学派〔のヴィンドゥヤヴァーシン〕は、この学説を得た後で、心が高慢になり、自らこういった。「この〔サーンキャの〕教えは最高で、これ以上のものはない。〔然るに〕、世の中では、釈迦の教えが盛んであり、皆この教えを偉大なものとする。〔これは、おかしなことであるので〕、私がことごとく論破しよう。」…王様はこの事を知って、すぐ他学派の者を呼び出した。…〔そして〕、王様は、人を派遣して、国内の〔仏教の〕諸法師に〔論争するかどうか〕問い合わせた。…〔その論争では仏教側が敗れた。それを知った世親は反論しようとしたが〕他学派の者の身体は、既に、石となってしまっていた。世親は、憤懣やるかたなく、すぐに『七十真実論』(Paramarthasaptati)を著作し、多学派の者が造ったサーンキャの学説を論破した。
至仏滅後九百年中外道。名頻闍訶婆娑。是山名。婆娑訳為住。此外道住此山因以為名。有龍王名毘梨沙迦那住在山下池中。之龍王善解僧佉論。…嘉其聡明即僧佉論語外道。…外道得此論後心高佷慢自謂。其法最大無復過者、唯釈迦法盛行於世、衆生謂此法為大、我須破之。…王知此事即外道…王遣人問国内諸法師…外道身既成石、天親彌復憤懣即造七十真実論破外道所造僧佉論。(大正新修大蔵経、No.2049,p.189b/24-190a/28)
ここに登場するヴィンドゥヤヴァーシンは、実は、少し前まで、『サーンキヤ頌』の作者イーシュヴァラクリシュナと同一人物と見なされていた。高楠順次郎が唱えた説らしい。これに対し、山本快龍氏は異論を唱えた。氏の論文は、同一人説と別人説を適宜紹介している。同一人説の根拠の1つとして、日本の古注をも、以下のように引用している。
暁應の金七十論備考には『彼頻闍訶此自在黑定是同人』〔ヴィンドヤヴァーシンとイーシュヴァラクリシュナは同じ人である〕とあり、(山本快龍氏「自在黒年代考」『宗教研究』8-2、昭和6年、p.92、〔 〕内私の補足)
山本氏自身は、別人と見ていて、こういうことも述べている。
元来世親が大乘敎典を制作したのは世親傅に依れば無着没後の晩年の頃であるから七十眞實論を書いた以後である。故に若しこの論が數論頌の反駁書であるとすれば世親は大乘敎典製作當時は頌を必ず知り、數論説を擧げる場合には何によりもこの頌に依らなければならないのにも拘らず頌を豫想する所が少くて返つて頌と反する説を述べてゐる所から判斷すれば彼は頌を知らなかつたと云はなければならぬ。故に頌と合する點があるにしてもそれは頌以外のものから來たに相違ない。何となれば、頌七一、七二に説く如く自在黑は從來傳はれる數論説を單に整理組織した人に過ぎないから世親當時には頌と似た説が存在してゐたからである。從つて世親の觀た數論説が頌に依るものでないとすれば世親と自在黑とは全然關係なしと云はなければならぬ。(山本快龍氏「自在黒年代考」『宗教研究』8-2、昭和6年、pp.100-101)
このように、サーンキヤ史上最も有名なイーシュヴァラクリシュナの人物像に関してさえ、異説が横行している。純粋にサーンキヤを考察するにしても、解明すべき課題は多いのである。その一端を知ってもらうために、付加した。