仏教余話
その26
インド仏教には、かなり理屈っぽい学問の伝統が
ある。古来、「因明」(hetu-vidya,ヘートゥ・ヴィドゥヤー)と呼ばれ、今日では、一般に、「仏教論理学」と通称される学問である。その伝統の最後期に生きたモークシャカラグプタ(Moksakaragupta,12世紀)という学僧の著作『論理と言葉』Tarkabhasyaには、私の主張を裏付けるような記述がある。「仏教論理学」では、ブッダを含めた聖者の直感、つまり悟りの状態を「ヨーガ行者の直感」(yogi-pratyaksa、ヨーギ・プラティアクシャ)と呼ぶ。この呼称を聞くと、如何にも、思考を欠いた「無念無想」の状態をイメージしてしまう。しかし、そこは、理屈・思考を重んじる「仏教論理学」である。我々のイメージとは、まるで違うことをいう。以下の如し。
〔仏教の4つの真理、苦・集・滅・道や無我という〕真実の対象(bhutartha)を、非常に熱心に(prakarsa)反復熟慮した(bhavana)果てに生じた知が、ヨーガ行者の知(yogijnana)といわれる。…〔それは聖者の悟りの知のことであり〕、〔合理的な〕判断(vikalpa)を通じて、〔一見神秘的に写る〕無分別(nirvikalpa)〔な知〕が生じるのである。
bhutarthabhavanaprakarsaparyantajam yogijnanan ceti/…vikalpan
nirvikalpakasyudayah/(L.N.Shastri ed.Tarakabhasa of Acarya Moksakaragupt ,Bibliotheca Indo-Tibetica Series-54,2005,p.21,ll.2-15,サンスクリット原典ローマ字転写)
yang dag pa’i don bsgom pa rab kyi mthar thug pa las skyes pa rnal ‘byor pa’i shes pa yang go zhes te/…rnam par rtpg pa las rnam par mi rtog pa skye ba yin no//
(L.N.Shastri ed.Tarakabhasa of Acarya Moksakaragupt ,Bibliotheca Indo-Tibetica Series-54,2005,p.113,l.13-p.115,l.12チベット語訳ローマ字転写)
ここには、「無念無想」の無の字もない。あるのは、繰り返し、思考した末の悟りの智慧だけである。私には、至極、常識的に見える。これが、インド仏教、そしてチベット仏教に存在する「思考重視の仏教」の姿である。先に紹介した「サムイェの宗論」のカマラシーラは、この伝統の保持者であった。摩訶衍の説く、神秘的にさえ写る「無念無想」は、影も形もない。
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