新インド仏教史ー自己流ー
その4
では、結集によって残された教えについて見てきましょう。話をお経に絞ります。初期の経典を阿含(アーガマ、agama)と呼びます。「伝承」というような意味です。これには4種類あって、四阿含と言われています。概説書の説明を引用してみましょう。
四阿含は、物語形式でブッダが人びと(弟子、在家信者、非仏教徒等)に教えを説く経典群である。基本的に散文経典であり、韻文(いんぶん)のみの経典は含まれない。韻文が説かれる場合も、韻文の前後に散文で何らかの説明がある。四阿含に収録される経典は「このように私は聞きました」という定型句から始まる。そして、しばしば「かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した」という定型句によって締めくくられる。・・・四阿含のうち、『長(じょう)阿含』は、比較的長い経典の集成である。『中阿含』は、『長阿含』よりも短く、・・・『長阿含』が「長」と題され、『中阿含』が「中」と題された所以は、収録された経典の長さから明らかである。それに対し、最も短い経典を集録した集成が『相応(そうおう)阿含』と『増一(ぞういつ)阿含』である。両経典集は、それら短経を集録する際の編集方針から名付けられている。『相応経典』は、「五蘊(ごうん)」「縁起」といった主題によって経典がまとめられているため「相応」と題されている。そして、『増一阿含』は、数に関する経典を集めており、「一」から「十」または「十一」まで、各経が取り上げている数によって分類しているために、「増一(または増支)」と題されている。(馬場紀寿「初期経典と実践」『新アジア仏教史03 インドIII 仏典からみた仏教世界』平成22年、p.83、ルビ私)
説法のパターンに応じ分類されたのが、四阿含であることはわかります。ここでは、四阿含ではありませんが、著名な経典を見てみましょう。題名を『ミリンダ王の問い』と言います。始めに、経典の概要を紹介します。概説書によれば、以下のような経典です。
『ミリンダ王の問い』Milindapanhaは、異色(いしょく)をはなつ作品である。これはギリシャ系統のミリンダとよばれる王と、仏教の沙門(しゃもん)ナーガセーナ(那先(なせん)比丘(びく))との対話録で、仏陀の説法を記録した経典ではない。ミリンダはギリシャ名メナンドロスの転訛(てんか)である。ギリシャ人は、紀元前五世紀ころから現在のアフガニスタンからインダス河の右岸(うがん)にかけて定住しており、アレクサンドロス大王の東征(とうせい)などで、さらに人口は増加した。一般に彼らを「インド・グリーク」とよぶ。・・・メナンドロスとナーガセーナとの対話篇(たいわへん)は、その原初部分は紀元前一世紀の中(ちゅう)葉(よう)までに作製されたのであろう。これが実際あった対話なのか、ナーガセーナが実在の人物なのか、用いられた言語が何であったかなどは、すべて不明である。ただその内容のおもしろさのゆえに、仏教内の各部派が説教本(せっきょうぼん)、あるいは教科書としてとり上げ、各部派の『ミリンダ王の問い』ができあがるようになったにちがいない。この原初部分に比較的近いものが漢訳の『那先(なせん)比丘(びく)経(きょう)』として現存する。・・・そこには、王の問いに対するナーガセーナの機知(きち)に富んだ答えが用意されている。「あなたは名は何と仰(おお)せか」という王の卑近(ひきん)な問いを手がかりに、ナーガセーナは存在するものの非実体性、いわゆる「無我」の思想を説く。ことにそこにあらわれる車の比喩(ひゆ)や灯火(とうか)の比喩は有名である。・・・近代のヨーロッパでは、これはパーリ文献のなかで最も名声を博(はく)した作品である。・・・プラトンの対話篇を思わせるという賛辞(さんじ)がしばしばこの作品に対して与えられる。事実それは、賛辞に値する内容をもつものということができるであろう。(長尾雅人『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』昭和54年、pp.55-56、ルビほぼ私)