新インド仏教史ー自己流ー
その2
加藤氏は、『俱舎論』周辺に絞り、論じたのです。
氏は、研究の範囲を意識して、こう述べています。
経量部が従来いわれてきたように、大乗瑜伽(だいじょうゆが)行派(ぎょうは)(Yogacara)の先駆(せんく)思想(しそう)であるのか、あるいはまた瑜伽行派の影響によるアビダルマ仏教内の改革運動であったのかは、本書のよくするところではない。他の所論に待ちたい。しかし経量部が実有なる法(dharma)を認めた点で、確かに瑜伽行派とは異なっている事実は、注意されなければならない。(加藤純章『経量部の研究』平成元年、p.i、ルビ私)
加藤氏は、著書の成果について、謙虚に語ります。
もし本書に何ほどか新しいものがあるとすれば、それは、(一)経量部(Sautrantika)は、紀元四世紀の半ばごろ活躍したと思われるシュリーラータによって、はじめて用いられた名称であり、これはいわゆる部派名ではなく、「有部の三世(さんぜ)実(じつ)有説(うせつ)に反対する者」「道理に合っている者」「かっこう(゛゛゛゛)のよい者」という譬(ひ)喩的(ゆてき)意味(いみ)があり、したがってその後は「現在(げんざい)有体(うたい)・過(か)未無体(みむたい)」説を共有する論師たちによって各自の主張に恣意的(しいてき)に冠(かん)せられた名称に過ぎない、という可能性が強い、(二)シュリーラータの思想は主として、根(こん)・境(きょう)が第一刹那(せつな)に生じ、識は第二刹那に生ずるのだから、認識は常に過去の対象しか捉えることはできない、すなわち認識の対象は常に非存在である、という立場から、根・境・識の同時的な「俱生因(ぐしょういん)」を排して、有部の「三世実有」説の根拠を否定することに集約されていた、という二点を示したことだろう。(加藤純章『経量部の研究』平成元年、p.ii、ルビ私)
ここでは、経量部の実質的創始者を、シュリーラータであると指摘しています。しかも部派名ではなく、新しい思想運動を行う、最先端のグループを指すと示唆しています。さらに、思想の要は、三世実有説批判にあると指摘します。この説は、説一切有部の部派名になっているほど、同部派にとっては、核心的思想です。常識的時間論からすれば、三世実有説は不可思議なものです。現在の存在と過去・未来の存在に、つまり過去・現在・未来の三世に同じ存在性があるとするのは、奇妙なことです。しかし、この背後には、因果応報の考え方が、強く意識されています。過去に犯した罪が消え去って、未来にその報いを受けないとすれば、宗教的倫理に背くとする信条から生まれたのが、三世実有説なのです。それでも、納得出来ない人達が、経量部なのです。