仏教豆知識
正信論争と忽滑谷快天
その1
忽滑(ぬかり)谷(や)快天(かいてん)(1859-1935)という人がいました。彼は、「正信(せいしん)論争(ろんそう)」なるものを引き起こしました。これは、昭和初期に勃発(ぼっぱつ)した大論争で、曹洞宗(そうとうしゅう)を2分して争われましたが、最早、知る人も少ないようです。論争の詳しい経緯も、忘れられた感があります。資料的に整理されたのも、比較的最近のことです。竹林史(たけばやしふみ)博(ひろ)『曹洞宗正信論争〔全〕』平成16年により、論争のほぼ全貌が知られることとなりました。私の説明も大部分それによっています。以下、論争のあれこれを点描(てんびょう)してみますが、問題の深刻さの割りに、事は感情論に走り、ゴシップ的な扱いもなされました。昭和仏教界の1コマとして考えてもらいたいと存じます。
正信論争は、昭和三年に起こった原田(はらだ)祖(そ)岳(がく)(1871-1961)派と忽滑谷快天派を中心とする宗学(しゅうがく)論争(ろんそう)です。その翌年には『曹洞宗正信論争』という書が公刊され、論争の一端は示されました。まず、その広告文を引用して、当時の雰囲気を探ってみましょう。
安心(あんじん)の路頭(ろとう)に迷へる此(こ)の秋憂(ゆう)宗(しゅう)護法(ごほう)の士(し)に此の書を薦(すす)む曩(さき)に忽滑谷快天、原田祖岳兩師(りょうし)によりて、安心論の烽火(のろし)一度揚(あ)げらるゝや、轟々(ごうごう)たる輿論(よろん)は沸騰(ふっとう)し遂(つい)に洞門(どうもん)稀有(けう)の大法戦(だいほっせん)は開始された。此の書は是(これ)等(ら)諸師(しょし)の安心論の一切を編纂(へんさん)したものであつて、今や宗門の信仰地を拂(はら)ひ、出家(しゅっけ)在家(ざいけ)共に安心の路頭に迷ふ時、特に此の一書を諸子(しょし)の机邊(きへん)に薦め各自自由討究と巖正なる批判の資(し)に供せんとするのである。(竹林史博『曹洞宗正信論争〔全〕』平成16年、p.25、『達磨禅』第14巻2号〈昭和4年2月〉の広告と指摘されている。ルビ私、1部表記変更)
昭和の文章といっても、古文と同じくらい難しいですね。上の文章からは、当時の熱気が伝わります。本来であれば、忽滑谷、原田両氏の文章を引用し、論争の真相を明らかにすべきでしょう。