新チベット仏教史―自己流ー
その7
その中にも、自相に関する以下のような文章があります。『量の大備忘録』という講義録Tshad ma’i brjed byang chen moからのものです。
〔ダルマキールティ作『量評釈』の二諦と〕〔世親作〕『倶舎論』で説かれた二諦と設定法は一致しない、つまり、そこ〔=『倶舎論』「賢(けん)聖品(じょうぼん)」第4偈〕では、壷等は破壊によって、その〔壷の〕認識は廃棄可能である〔そういったものを〕日常的真理(=世俗諦)と位置付ける。一方、ここ〔=『量評釈』「知覚」章第3偈〕では、〔目的達成能力のある〕自相によって成立しているものを究極的なもの(=勝義)として成立していると位置付ける。故に、そこ〔=『倶舎論』〕では〔全体たる壷が、部分に破壊可能であるという観点から、その壷は〕日常(=世俗)の実例であると説明されるけれど、ここ〔=『量評釈』〕では、〔目的達成能力を持つという観点から、同じ、全体たる「壷」を、〕究極的なもの(=勝義)の実例であると位置付けるのである。 (The collected works of rJe Tn-kha-pa Blo-bzan-grags-pa,vol.22,Pha,34/2-3,folio.218)
同じ壺でも、全く位置づけが異なるのです。ここにも、因明の自相が登場します。こういった発言のすべてを勘案して始めて「自相によって成立するもの」の真の意味が分かるはずです。この講義録を記録したのは、直弟子タルマリンチェン(Dar ma rin chen,1364-1432)です。最後に付された奥書を示しておきましょう。
偉大なるアジャリ御父子の穢れなき論理の有り様を大いに傷つける者達の悪考を払拭(ふっしょく)するために、私の師匠、人中の獅子(しし)、所(しょ)知(ち)のあらゆる実相を穢れなく論理を通じて、ご覧になる御目を持ち、分けても、内・外の縁起する諸法は、現れた時点から、水中の月影のようであると、お考えになる大人物ロブサンタクパのご面前の金言の概要、知において確定する諸々のことを、論理論者タルマリンチェンが備忘録として、筆記したのである。