仏教余話
その237
齋藤氏の結論は、面白いが、そのままでは、首肯出来ない部分もある。少しく、そのことを述べてみよう。まず、氏は、『入阿毘達磨論』を毘婆沙師の初出とする。しかし、氏の提示する箇所には、「毘婆沙」とはあるが、「毘婆沙師」はない。これは、大蔵経データベースで検索しても、書籍を検分しても、間違いない。事実誤認である。更に、毘婆沙師ではなく、毘婆沙で検索すると、かなり多くの文献にヒットするが、毘婆沙師と毘婆沙は、どのように区別されているのだろうか?後者が、『大毘婆沙論』という文献を意味し、前者は、学派名なのだろうか?しかし、『大毘婆沙論』に従う者は、須らく、毘婆沙師と捉えることも可能である。氏自身「「毘婆沙論」に依拠しその権威を認める集団」と述べている。とすれば、問題の2語を区別する意味合いもないだろう。そういう観点に立てば、氏が用心深く、毘婆沙師の増広と見なした、論文所引の『大毘婆沙論』の記述「迦濕彌羅國毘婆沙師説、無記根有三、謂無記愛慧無明。(795a/18-19)」「カシュミール国の毘婆沙
師は、説く。無記根には三ある。無記の愛・慧・無明である。」も甚だ、怪しい。怪しいというのは、増広として、削除する必要があるのか?という意味である。実際、齋藤氏が、初出とする『入阿毘達磨論』には、よく似た1節がある。以下の如し。この四無記根は、これは自分が認める所である。…毘婆沙は、無記根をただ三種とする。無記の愛・無明・慧の三である。
此四無記根、是自所許。…毘婆沙者立無記根、唯三種、謂無記愛無明慧三
(No.1554,982c/13-16)
つまり、毘婆沙師といっても毘婆沙といっても、大差ないのではないか、と私は言いたいのである。ところで、『入阿毘達磨論』には、漢訳とチベット語訳がある。齋藤氏の証拠とした1文には、漢訳とチベット語訳が揃っているが、私が、直前に引用した文は、漢訳だけあり、チベット語は欠落しているそうである。今、手元にチベット語訳がないので、確かめる術もないのだが、『入阿毘達磨論』の訳注研究をされた櫻部建博士の著書を覗くと、確かに、齋藤氏が証拠として引用した箇所には「毘婆沙師」とあり(櫻部建「附篇『入阿毘達磨論』」『増補 佛教語の研究』平成9年、所収、p.204)、もう1箇所では、漢訳相当文が、チベット語訳には欠如していることを示している(櫻部建「附篇『入阿毘達磨論』」
『増補 佛教語の研究』平成9年、所収、p.207,注④)今は、とりあえず、櫻部博士の指摘や訳に信を置くとして、考えても、やはり、毘婆沙師と毘婆沙を、厳密に区分する意味を、私は見出せない。『大毘婆沙論』と毘婆沙師が切っても切れない関係にあるという前提に立てば、区分する理由はない。『大毘婆沙論』を尊重しない毘婆沙師がいるとか、毘婆沙師には全く別の意味合いがあるとか、そういったことが、証明されない限り、区別することには、賛成出来ない。そういう眼で、毘婆沙を検索すると、実に、色々な文献に登場する。