仏教余話
その116
私は、この書を巡る最新の議論には、まるで、疎いので、確かな情報を伝えられるか、疑問であるが、簡単に内容を紹介してみよう。平川彰博士は、こう述べている。
『大乗起信論』は漢訳だけがあり、サンスクリット原典も、チベット訳も存在しない。インド仏教で『起信論』を引用している論書も見あたらない。(平川彰『仏典講座22 大乗起信論』昭和48年、p.16)
これでは、「インド撰述」などあり得ないように思うが、平川博士は、これを否定する。博士はいう。
私は『起信論』は「インド撰述」であると見て差支えないと考えている。…『起信論』の内容を見ても、細かな点でインド仏教の教理や教団の実際の在り方と合致している点が多く、六世紀の中国仏教徒の学殖をもってしては、到底書き得なかったと思われる点が多い。経典の引用なども、そのままの文章で漢訳経典に見出されるものは、ほとんどないのである。しかし趣意は見出されるのであるから、原著において引用されていた経文を、訳者がかなり自由に訳したものと考えるのが妥当である。(平川彰『仏典講座22 大乗起信論』昭和48年、pp.31-32)
一般的に真諦という有名なインド僧が訳したと目されているが、その訳業を詳しく調査した吉津宣英博士は、こう述べている。
私のように『大乗起信論』の真諦訳出を否定するところまで主張してみると、第一に分かるのはこの私の仮説の反証としての『起信論』真諦訳出説の根強さである。そして、第二に『起信論』を真諦から無縁な存在と決着してみると、真諦教学の中心は当たり前のことではあるが、やはり無着・世親の『摂大乗論』や『倶舎論』を中心としたものということが明確になる。…さて、その第一の根強い『起信論』真諦約出説であるが、これがいかに形成されたのであろうか。これもまた仮説であるが、私は曇延や慧遠、そして曇遷という隋代の有力な学僧たちが真諦が訳出したことが明らかな『摂大乗論』の教学と『起信論』のそれとを融合し、あたかも一体であるかのごとくに著作として公にして見せたことが大きい要因であると考えている。(吉津宣英「真諦三蔵訳出経律論研究誌」『駒澤大学仏教学部研究紀要』61,平成15年、pp.284-285)
最も新しい研究では、「インドか中国か」という2分法は取られてさえいない。石井公成氏は、講演録で、こう述べている。
これまでは漢訳経論については、インドの真作か中国の偽作かという議論が盛んでしたが、そのような二分法は古いと言われるようになってきました。つまり、現在では、漢訳経論とされているものの中には、インドのお坊さんが中国に来て講義したものを弟子が編集したもの、またはインドのお坊さんが下手な中国語で書いたものに弟子が手を加えたもの、といった形態もあることを認めるべきだ、という説が出てきているのです。船山徹さんなどがそうした点を強調しており、『起信論』もそれに近い性格を持っているというのが、大竹晋さんと私の立場です。(石井公成「近代日本における『大乗起信論』の受容」 龍谷大学 アジア仏教文化研究センター2012年 度第10回 全体研究会 発表原稿、p.82)
未だ謎の多い問題の書であることは、納得してもらえるだろう。
さて、『大乗起信論』の内容について、博士は、法相宗との絡みも含めて、以下のように述べている。
『起信論』は如来蔵思想の立場から、大乗仏教の根本思想を解明した論書である。…『起信論』が阿梨耶識〔=アリヤ識、穢れのない識〕 を「真妄和合識」〔真実と虚偽の両面がある識〕となすことは、法相宗が阿頼耶識〔=アーラヤ識、根源的識〕を「妄識」〔虚偽の識〕と立てるのと、正面から対立するものである。(平川彰『仏典講座22 大乗起信論』昭和48年、pp.19-25,〔 〕内は私の補足)
最近の大竹晋氏の研究ではコンピューターを駆使し、同署は中国文献のパッチワークであることを示したが、この着実な成果さえいつ覆るかわからない。