新インド仏教史ー自己流ー
その2
平川彰氏は、以下のように描写(びょうしゃ)しています。
第二結集とは、ヴェーサーリー(Vaesali)の比丘(びく)たちが、戒律に違反する十種の問題(dasa vattuni 十事)を実行していたために、それに反対する人びととの間に争いが起こった。その争いを裁定(さいてい)するために、七百人の比丘がヴェーサーリーに集まった。このときこの十事(じゅうじ)は、戒律に違反するとして否定せられた。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.109,ルビ私)
さらに、平川氏は、具体的な様子やその顛末(てんまつ)を示してくれます。 仏滅百年のころ、ヴェーサーリーに遊行(ゆぎょう)してきたヤサ・カーカンダカブッダという比丘が、ヴェーサーリーの比丘たちが信者から金銀の布施(ふせ)を受けているのを見て、これを摘発(てきはつ)したという。しかし、ヤサは逆にヴェーサーリーの比丘たちから賓斥(ひんせき)されたので、西方の比丘たちに応援を求めることになった。・・・十事の諍(いさか)いは、ヤサが西方比丘に応援を求めたために、東西の比丘の争いになったようであるが、しかし東国(マガダやヴェーサーリーをさす)の比丘の中にも十事に反対した比丘があった。従ってこれは、戒律をゆるやかに守って、除外例を認めようとする寛容派(かんようは)の比丘と、あくまで戒律を厳守(げんしゅ)すべきであると主張する厳格派(げんかくは)の比丘との対立であったと見てよい。仏滅百年ともなれば、サンガの拡大とともに、比丘の数もふえ、考え方の違いも起こるから、教団にかかる対立が起こるのは、充分ありうることである。この会議では厳格派の主張が全面的に通ったようであるが、これは長老比丘には厳格派が多かったためであろう。東西からそれぞれ四人の代表を出して、彼らの審議(しんぎ)によって正否(せいひ)を決定したという。長老比丘が代表に選ばれたために、十事はすべて「非事(ひじ)」と判定されたのである。しかしこの決定に承服しない比丘の方が多かったらしい。そのためにこれが教団分裂の原因になったのである。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、pp.110-112,ルビ私)
十事はその名が示すように、10項目ありました。中でも1番の懸案(けんあん)が「金銀の授受(じゅじゅ)」でした。教団内で意見の相違が顕在化(けんざいか)したようです。
さて、教団が広まった頃、仏教を庇護した有名な王が現れます。アショーカ(Asoka,BC.268-232)王と言います。仏教に帰依し、法に基づいて国を統治しようしたと伝えられています。中村元氏は、アショーカ王の統治の仕方をこう述べています。
アショーカ王は、国籍・民族・宗教のいかんを問わず、世界中のいかなる人間でもいかなる時代でもまもるべき永遠の理法(りほう)の存することを確信し、これを「法」(ダルマ dharma)と呼んだ。これは人間の行為の規範(きはん)であり、・・・この法は人間の存するかぎり永遠に妥当(だとう)する法則である。アショーカ王はこれを『古(いにしえ)よりの法則』と呼んでいる。(中村元『中村元選集[決定版]第6巻 インド史II、1997年、pp.312-313,ルビ私、1部省略)
アショーカ王は、理想主義者であったようです。そして、仏教に帰依したけれど、仏教のみを大切にしたのではないこともわかります。ただ、アショーカ王は、仏教に対し多大な関心を抱き、その安寧(あんねい)を図(はか)っていたようです。中村元氏は、以下のように描写(びょうしゃ)しています。
アショーカ王の時代における仏教教団の急激な発展と膨張(ぼうちょう)とは、仏教思想そのものの発展と変化を起こさせることになった。・・・〔スリランカの史書によれば〕、アショーカ王の仏教帰依以来、サンガは急激に増大(ぞうだい)した。そのため仏教外の宗教者たちは世人(せじん)の尊敬と所得とを失ったので、『利益を得るために』みずから僧衣(そうえ)をまとい、比丘(びく)たちと共住(きょうじゅう)し、自分らの説を仏説なりと公言(こうげん)し、欲するがままの行いをした。そのために比丘たちは七年間インドすべての精舎(しょうじゃ)において、定期的集会と安居(あんご)の終わりの懺悔式(ざんげしき)を行わなかった。そこでアショーカ王はそのことを聞いたので一人の大臣を「アソーカの園」に派遣(はけん)して、定期集会を行わせようとした。・・・王はビクを一人一人呼び出して、思想を訊問(じんもん)検査し、誤った見解をもっている者を教団から去らせた。・・・そこで教団は和合して、それ以後は定期集会を行った。次いで〔長老〕ティッサは知識あるビク一千人を選んで、「アソーカの園」で九か月かかって正法(しょうほう)の結集(けつじゅう)を行い、異説を斥(しりぞ)けて『論事(ろんじ)』という書物を作った。〔という〕。これは第三結集と呼ばれるものであるが、これは実際に行われたのではなく・・・とにかく〔アショーカ王は〕教団を積極的に統制(とうせい)干渉(かんしょう)していたのであるから、彼の統治下(とうちか)になんらかの機会に聖典(せいてん)編纂(へんさん)が行われたということは、おそらく事実であろう。(中村元『中村元選集[決定版]第6巻 インド史II、1997年、pp.402-404,ルビ・〔 〕私、1部省略)
こうして様々な思惑や思想が生まれ、仏教は多様化の道を進みます。その有様を綴(つづ)った後代の文献から引用してみましょう。