新インド仏教史ー自己流ー

その6
仏教論理学は、インド仏教が消え去るまで続きました。大変理屈っぽい学問が、インドでは盛んだったわけです。しかし、全く、異なるように映る密教もまた、盛んでした。一方で仏教論学者であり、他方で密教者である学僧もたくさんいました。今の我々から見ると、矛盾しているようですが、当時の学僧にとっては当然のことだったのでしょう。矢板英臣氏は
「〔ヴィクラマシーラ僧院六賢門の1人〕Sahajavajraらが密教の基礎学としてDharmakirtiを学んだであろうことは想像に難くない」(矢板英臣「SahajavajraのDharmakirti観―インド密教における認識論論理学」『密教学研究』27,平成7年、p.38,〔 〕内私)と述べています。
 ヴィクラマシーラというのは、後代のインドで栄えた寺院です。そこでの勉学では、密教も仏教論理学も矛盾なく併存していたのです。ところが、中国では全く事情が違います。法称の作品は、ついに、1度も漢訳されませんでしたし、陳那の『集量論』の漢訳は失われてしまいました。中国・日本での仏教論理学の位置付けは、以下のように言われています。
  中国の因(いん)明家(みょうか)〔仏教論理学者〕たちは、因明説を論諍(ろんじょう)の道具として、相手を屈服(くっぷく)せしめ、自らの主張を強弁(きょうべん)するものと考えたといわざるを得ない。中国の因明研究は当初から、このような方向付けの中で展開してゆくのである。このことは、これを受容した日本の仏教徒達においても同じであった。(武邑尚邦『因明学 起源と変遷』2011新装版、p.31、〔 〕・ルビ私)
学問としての成熟度はまるで異なっていたのです。中国・日本をターゲットとする研究は、これからの分野であるとは言えるでしょう。
 以上、自己流にインド仏教史を考察してきました。日本仏教等を引き合いに出すことは、「仏教とはそもそも何か?」を考える上で、よい比較になると思ったからです。最後に経量部を持ってきたのも、日・印の仏教の体質が如何に違うのか考えてもらうためです。
 次回からは、チベットに光を当てて、その地の仏教を考察するつもりです。

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