仏教余話
その238
アビダルマ文献だけに焦点を当てても、例えば、『倶舎論』が範としたとされる法救の『雑阿毘曇心論』に、毘婆沙は出てくる。検索では、8箇所である。気になる箇所を紹介してみよう。まず、『雑阿毘曇心論』は、毘婆沙と阿毘曇をセットにしたり、分けてみたりする。セットの例としては、以下のような文言がある。
清浄なるものを顕現し、煩悩を対治するのは、阿毘曇と毘婆沙によって、応ずるところのものである故に。
為顕現清浄煩悩対治、依阿毘曇毘婆沙所応故。(869c/26-27)
このように、セットになって用いられることもあるが、両者は、区別されることもある。以下のようにである。
〔阿毘曇の〕名は、諸論の中で、勝れているということである。解脱に向かって趣くもの、これを阿毘曇と名付ける。
名者諸論中勝、趣向解脱是名阿毘曇(870a/4-5)
これは、阿毘曇の原語アビダルマ(abhidharma)の、よくある解釈であろう。そして、毘婆沙は、こう解釈する。
無量の諸法は、様々な意味を持つ、色々な類いの説、雑多な説〔を説く論書〕が生まれた、これを毘婆沙論と名付けた。ブッダのようであれば、二智を法智・比智と簡略に説くが、毘婆沙は、無量の考え方(分別)を説くのである。
無量諸法種種義、生説種種類種種説、是名毘婆沙論。如佛世尊略説二智法智比智、毘婆沙説無量分別。(870a/10-12)
『梵和大辞典』によれば、毘婆沙の原語vibhasaは、「広説」「種種説」と漢訳されている。思えば、異説の集成、即ち、広説、種種説は、『大毘婆沙論』そのものの著述スタイルである。毘婆沙が同書を直接指すという確証はないが、毘婆沙の著述形式という意味合いは伺える。つまり、反対意見を排除するのではなく、すべての意見を集約する、というスタイルが、毘婆沙にはあるのである。そういうスタイルを堅持する者を毘婆沙師と呼ぶとすれば、何も、『大毘婆沙論』だけを目安にして、名の由来を云々する必要もな
いだろう。