「倶舎論」をめぐって

XXX
師シチェルバツキーは、日本留学までの経緯を、こう述べている。
  彼〔ローゼンベルグ〕の大学時代すでに、私〔シチェルバツキー〕は、世親作『倶舎  論』の重要性に注意を払うよう導いた。ペテルスブルグアジア資料館では、チベット語、中国語、サンスクリット語の文献が豊富に利用出来たので、彼はその研究に取り組んだ。1911年、カルカッタで、私は、日本人僧侶やまかみじょうせんと知り合いになった。彼は、そこの大学の長であった。私は、彼から、日本の『倶舎論』研究の多くの興味深いディテールを学んだ。その伝統的解釈などである。その伝統は、まだ、日本で生きているのである。私はこのことをローゼンベルグに書き送った。彼は、現地で伝統的解釈に通じるために、日本行きを決意した。…1916年夏、ローゼンベルグは日本からサンクト・ペテルスブルグに戻った。…ローゼンベルグは…彼の博士論文の準備と印刷に邁進した。それはすでに日本で青写真が出来ていた。「仏教哲学の諸問題」と題されていた。(K.Kollmar-Paulenz,J.S.Barow:Otto Ottonovich Rosenberg and his Contribution to Buddhology in Russia,1998,Wien,p.51)
この記述には、1部ミスがあるので、先ず、それを指摘しておこう。「山上じょうせん」の原文表記はYamakami Joshenであるが、これは山上曹源のことであろう。西村実則氏の著書には、以下のような記述がある。
   その後、師のシチェルバツキーは世親のとりわけ『倶舎論』の重要性に注目した。そのきっかけとなったのはシチェルバツキーがインド滞在中(一九一○から一九一一年)、カルカッタで一人の日本僧山上曹源(氏はカルカッタ大学講師をし、当地でSystem of Buddhistic Thought.を出版している)に会い、日本には『倶舎論』研究の伝統が今もって続いていると聞いたことによる。シチェルバツキーはそのことをローゼンベルグに書き送るとローゼンベルグはにわかに日本行きを決断したのである。(西村実則『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』2012,p.228)
  ネット検索すると、山上曹源は曹洞宗の僧侶で、駒澤大学の学長を務めたこともある人物だとわかる。1878~1957という生没年である。現今の駒沢大学仏教学部で、『倶舎論』の研究は必ずしも盛んではないが、昔は、多くの『倶舎論』学者が在籍していた。ローゼンベルク関連で名前を挙げると、梶川乾堂という学者の名が浮かぶ。彼には、『倶舎論大綱』(1908)なる著書があり、ローゼンベルグが質問をしたという記録もある。
ローゼンベルグの『仏教哲学の諸問題』には、典拠目録が掲載されている。そこには、梶川の『倶舎論大綱』が示され、以下のようなコメントも付加されている。
 重要な術語表を附した倶舎論の精要。定義の選択は巧妙になされている。講義の時の精要たらしめることが著者の目的。(佐々木現順訳本p.295,Der probleme des buddhistischen Philosophy,p.272)
 さて、シチェルバツキーの記述からは、『仏教哲学の諸問題』が日本の倶舎学を背景として著されていることが読み取れる。事実、ローゼンベルグ自身こう日本留学の意義について述べている。
 私に課せられた課題は、…日本に於ける宗教的及び哲学的文献の研究、特に、仏教の生きた伝統の精通を包括し、以ってこの伝統がインド仏教並びに印度の宗教と哲学の研究に対して有している意味を確定することであった。(『仏教哲学の諸問題』O・ローゼンベルグ、佐々木現順訳、昭和51年(1976)p.3)
また、こうもいう。
 上述した如く、典拠として役立ったものは日本文献と生きた伝統及びその援助によって完結した仏教哲学の原典の諸漢訳であった。(同佐々木訳本、p.11)
ローゼンベルグの日本倶舎学への依存度が理解できる。無論、ローゼンベルグは、日本の伝統に唯々諾々と従っていたわけではない。かなり厳しい見方も示している。例えば、次のようにいう。
  古学派の学者が、たとえ不十分な著作を熟知していたとしても、彼はそれを批判しないであろう。彼は未知の著者に反駁することを品格に係わると考えたり、又、同僚の書物を論駁することは適当でないと考えるからである。日本人には客観的批判という考えを理解することは困難である。彼らの意見に依れば、どの批判も侮蔑をふくむ。しかし、そのような立場は当然、自由な思想交換を高度にさまたげているのである。(佐々木訳本、p.38)
ローゼンベルグの日本留学中の研究の様子を、綴った記述も、引用しておこう。
 大正大学では荻原雲来だけでなく、加藤精神の講筵にも列した。当時、荻原と加藤は『倶舎論』の解釈、とりわけ三世実有説や極微論〔=原子論〕をめぐって論争を繰り返していた。荻原は聖語学研究室、加藤は仏教学研究室と壁一つ隔てて在籍したが、論争は誌面を通じてであった。ローゼンベルクは自著『仏教哲学の諸問題』でこの論争にふれることはないが、しかし時期的に知っていたと思われる。…そのほか奈良の法隆寺をローゼンベルクはスコラ哲学の一センターと呼ぶことがあるから、当然注目していたはずで
ある。法隆寺は一九○二年に性相学の権威佐伯定胤が管長に就任する以前から倶舎と唯識を同寺の勧学院で講じていた。この勧学院では明治二十六(一八九三)年から昭和十九(一九四四)年まで実に五十年間、性相学が開演され(冨貴原章信「佐伯定胤老師」)、佐伯が主に基や普光の教学を中心に講じていた。ローゼンベルクもやはり中国の基と普光の注釈に注目した。(西村実則『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』2012,p.243〔 〕内私の補足)

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