「倶舎論」をめぐって

XCIV
私の所有している『チムゼー』は、1992年にインドで出版されたものである。表紙には『倶舎論注、阿毘達磨荘厳』mDzod'grel mNgon pa’i rgyan(ゼージェルゴンペーギェン)とあるが、チベット文の序論には『阿毘達磨倶舎論偈注、阿毘達磨荘厳』といわれる、通称『チムゼー』というこれは、…(chos mngon mdzod kyi tshig le’ur byas pa’i mngon
pa’i rgyan zhes bya bayongs grags sumchims mdzod zhes pa’di ni)とある。有名な注釈なので、2回に分けて、冒頭部分から一文を紹介しておこう。
  帰敬辞(mchod par brjod pa)
インド語、アビダルマコーシャカーリカーヴリッティ・アビアランカーラ (a bhi dha rma ko s aka ri ka bri tti abhi a lam ka ra,abhidharmakosakarikavrttiabhyalamkara)と名ずける。
チベット語では、チューゴンペーゾーキーチクレーフルビャーページェルパ・ゴンペーギェン(chos mngon pa’i mdzod kyi tshig le ‘ur byas pa’i ‘grel pa mngon pa’i rgyan)と名ずける。
聖文殊に帰命します。
すべての知るべきこと(shes bya,jneya,所知)について、あらゆる様相(rnam,akara、相)を知る智慧を増しても、自らのお姿(rnam pa,akara)すべてをご存知ない。大慈悲あるあなたは、世間を慈しむ他者の力となっても、何物にも執着しない、一方、他者の善の源、善の成就に精進することとなってさえ、あなた自身は、常に、不動におわします。多様なお言葉で、諸世間を無垢のアビダルマに結びつけるかの牟尼に帰命します。
 仏説の大海
 牟尼の宝州の舟
 アビダルマこそそれである故に、
 これを説くことに喜悦を生ず
 何故なら、これは学者達が、
 多くの異門で釈したけれど、
 微細・明瞭に理解し難いことどもを
 理解容易なようにするために、私は努める。

 多くの者は、望もうとしない故に、
 他者も智慧が明晰でない故に、
 更に嫉妬に苛まれる故に、
 従って、私自身の修養のためなのである。
 

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