「倶舎論」をめぐって
XLV
ところで、このヤショーミトラは、『倶舎論』の注釈においてのみ、その名は高く、他の著書は知られていない。従って、彼自身の立場は、どのようなものかは判然としない。兵藤一夫氏は、次のように述べる。
ヤショーミトラはヴァスバンドゥ〔=世親〕が経量部に属するとし、自らも同じ経量部であることを明言する。(兵藤一夫「経量部師としてのヤショーミトラ」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,p.331、〔 〕内私の補足)
兵藤氏は、「世親は『倶舎論』著述の時点で、既に唯識であった」と仮定する私とは、異なった立場を取る。氏は、以下のような慎重論を取る。
確かに、『倶舎論』そのものが〔唯識派の基本聖典〕『瑜伽論』など瑜伽行派の論書と深く関わりを持っていることが見出されたことは、ヴァスバンドゥ〔=世親〕の思想を考える際、重要である。しかし、そのことがそのまま彼が『倶舎論』の著作段階から瑜伽行派であったことにはならないであろう。彼が瑜伽行派の立場をそのまま受け入れていないことも見られるのである。(兵藤一夫「経量部師としてのヤショーミトラ」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,pp.315-316,〔 〕内私の補足)
兵藤氏の言は、現時点では正鵠を得たものかもしれない。しかし、氏がいう経量部・瑜伽行派の実態がはっきりしなのでは、所詮、空しいのである。例えば、何年か前、経量部を論じる学界をリードしたクリツァー(R.Krizer)博士は、基調論文の冒頭で、こう述べている。
経量部という術語は、ほとんどすべてのインド仏教概説研究に登場するけれど、実際、誰が経量部なのか 彼らの主張した立場は、正確には何なのか、についての信憑性のある情報は、ほとんどない。(The Sautrantikas,The Jounal of the International Association of Buddhist Studies,26/2,2003,General Introduction,p.201)
この状態は今でもさほど変わってはいない。一方、瑜伽行派あるいは唯識派にしたところで、内実は不明瞭であるといってよい。佐久間秀範氏は、次のように述べている。
中国と日本の法相宗が描いてきたインド瑜伽行派の諸論師(弥勒、無着、世親、無性、安慧、護法、戒賢、陣那etc.)間の師弟関係や系譜が、実際に表明される思想内容を精査すると、実は矛盾に充ちたものであることがわかる。(佐久間秀範「法相宗所伝のインド瑜伽行派諸論師の系譜の再考」、平成23年度科学研究費助成事業研究成果報告書より、ネットで披見出来る)
つまり、経量部にしても唯識派にしても、明確な内容規定が存在しないのである。このような状況下で、「誰が、どこに所属する」という議論をしても、絵空事でしかない。慎重論を取るように見える兵藤氏にも、そして私にも同じ課題があるのである。
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