仏教余話

その241
前置きが長くなってしまった。我々は、『倶舎論』におけるサーンキャ思想を探らなければならないのだ。その理由は、世親その人が、隠れサーンキャとさえ思われるほど、件のインド思想との親縁関係が深いからである。また、世親のみならず、説一切有部自体も、サーンキャとの関わりが深いからでもある。荻原雲来博士は、両学派に触れて、以下のようにいう。
 毘婆沙師は存在を二分して永久的絶対的のものと一時的現象的のものとに分ち、その中前者は虚空と涅槃の二つにして、後者は物と心と力にして過去現在未来に刹那的に有なりとす。この三世実有法体恒有説は二種の法を認む、即ち(一)法の不滅性(dharma-svabhava)と(二)法の現実存在(dharma-laksana)となり、かく毘婆沙師が不滅の物体と現実生存として生滅の顕現とを認むるは数論に好く似たり、所有ゆる顕現の息む時は法性に帰す。是は数論の自性に当る、但だ数論の自体は一のプラクリティ(prakrti)なるに毘婆沙師のは多数なるを異とす、また数論は二元論にして自性の外に霊魂を認むるに反し仏教は無我にして霊魂を認めざるを異とす。(荻原雲来「仏教哲学思想発達の一瞥」未発表遺稿『荻原雲来文集』所収、昭和47年、p.299)
先に梶山雄一博士などの言によっても、両者の関係に触れたが、より昔の先学の言葉でも、再確認出来る。では、テキストを使い、実際の考察に移ろう。
『倶舎論』第5章「随眠品」の三世実有説を批判する箇所には、こういう言葉がある。
さて、〔いつ何時でも、結果をもたらす〕一切合切(sarvam eva,thams cad kho na)が存在するならば、現時点で(idanim,da ni)「何が、何に対して、作用するのか?」〔という作用の個別性に関する疑問が沸く〕。〔一切合切が存在する〕そうなると、〔サーンキャ学派と目される〕雨衆外道(varsaganya,lo rtsis pa)の主張を闡明することになってしまう。〔彼らの主張は〕「存在するものは、必ず、存在する。非存在のものは、絶対に、非存在である。非存在のものにとっては、〔何かを〕生み出すこともない。存在するものにとって、消え去ることもない。」である。
atha sarvam eva casti/kasyedanim kva samarthyam/varsaganyavadas caivam dyotita bhavati “yad asty asty eva tat/ yan nasti nasty eva tat/asato,nasti sambhavah/sato nasti vinasah” iti(P;p.301,ll.1-3,S;p.643,ll.6-8)
yang thams cad yod pa kho na yin na da ni gang la gang zhig nus te/de lta na lo rtsib pa(read.rtsis pa) rnams kyi rtsod pa skad du gang yod pa de ni yod pa kho na ‘o//gang med pa de ni med pa kho na ‘o//med pa la ni skye ba yang med do//yod pa la ni ‘jig pa yang med do zhes brjod pa yin no//(Gu,284a/2-3)
一切法一切時有誰於誰有能生功能、又応顕成雨衆外道所党邪論、彼作是説有必常有無必常無、無必不生有必不滅。(佐伯旭雅『冠導阿毘逹磨倶舎論』II,平成5年、rep.of 1978,p.842,ll.2-4)
若如汝所執一切皆有、今於何法何処、応有功能。若執如此、婆沙乾若義即被随順、彼言、若有必有、若無必無、若無不生、若有不滅。(『毘逹磨倶舎釈論』大正新修大蔵経、No.1559,p.259b22-24)


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