新インド仏教史ー自己流ー

その3
難しい表現をしていますが、仕組みは簡単です。AとBという全く異なるものを同じと見る思考法です。皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、日本には昔、丑(うし)の刻(こく)参(まい)りという呪いがありました。恨みを抱く人を呪う呪術です。深夜に人形を木に結び、人形に釘を打ち込みます。すると恨んでいる人が苦しみ、死に至るという呪術です。この場合は、人形と
恨んでいる人を同置しているのです。人形Aと恨んでいる人Bは、本来、全く異なった存在です。しかし、AとBを同置すれば、Aである人形を苦しめることがBである人を苦しめることが出来ると考えるのです。この考え方に関して、文化人類学の金字塔フレイザー(J.G.Frazer,1854-1941)の『金枝篇』The Golden Boughに長い記述があるので、適宜(てきぎ)抜粋してみましょう。
 呪術の基礎をなしている思考の原理を分析すれば、それは次の二点に要約されるもののようである。第一、類似(るいじ)は類似を生む、あるいは結果はその原因に似る。第二、かつてたがいに接触していたものは、物理的な接触のやんだ後までも、なお空間を距(へだ)てて相互的作用を継続する。前の原理を類似の法則といい、後者を接触の法則または感染の法則ということができるであろう。この二つの原理のうちの前者、類似の法則から、呪術師はただ一つの事象(じしょう)を模倣(もほう)するだけで、自分の欲するどんな結果でも得ることができると考える。後者からは、たとえそれが身体の一部であったものであろうとなかろうと、ひとたび誰かの身柄(みがら)に接触していた物に対して加えられた行為は、それと全く同じ結果をその人物の上にひき起こすと結論する。・・・この思考の系統は、二つながら事実上きわめて単純かつ初歩的である。それらは抽象的(ちゅうしょうてき)にではなく具体的に未開人(みかいじん)の素朴(そぼく)な知性に対してのみならず、他のあらゆる低文化(ていぶんか)民族(みんぞく)に親しみぶかいものであるところから、決して複雑かつ高度なものではあり得ないはずである。・・・たとえば、北アメリカのインディアンは、砂、灰、粘土のようなものの上に人物の像を描いたり、ある物体をその人の身体と想定しておいて、尖(とが)った棒(ぼう)切(き)れでそれを突き刺したり、その他の方法で害を加えたりすることによって、それが表す実際の人物自身の上に全く同じ危害を加えることができると信じこんでいるという。(フレイザー著、永橋卓介訳『金枝篇』(一)1951年、pp.57-61、ルビほぼ私)
先に見たインドの概説書も恐らくフレイザーの記述を踏まえていると思います。つまりヴェーダ的思考は、きわめて呪術的なものであることがわかります。祭式がどんなに複雑化しようが、根底にあるのは呪術的、マジカルな思考なのです。最後に引用したインディアンの話は、日本の丑の刻参りとよく似ています。
 さて、フレイザーは、ヴェーダの祭官の役割を示すような説明もしています。その呪術的役割をこう述べています。
 未開社会には、このほかに公的呪術とでも呼ばれるべきもの、すなわち、共同社会全体の安寧(あんねい)と福利(ふくり)のために執(と)り行われる呪術も広く発見される。・・・呪術師はもはや単なる私的施術者(せじゅつしゃ)の域(いき)を脱し、必ずある程度までに公的職員の域に達しているからである。このような職員の階級の発達は、社会の宗教的発達のためにも、また政治的発達のためにも極めて重要なものなのである。なぜなら、部族の安寧がこのような呪術儀礼の執行(しっこう)によつていると想像される場合には、呪術師は強大な権威(けんい)と信任(しんにん)の位置に進み、容易に酋長(しゅうちょう)あるいは王の位と権威を獲得することができるからである。フレイザー著、永橋卓介訳『金枝篇』(一)1951年、pp.119-120、ルビ私)
カーストと言われるインドの身分制度のことは知っている方も多いと思います。カーストの最上位は、バラモン(婆羅門)と呼ばれる、僧職の人々です。これはヴェーダの祭官に相当します。フレイザーの指摘のように、社会の頂点にあるのは、社会的呪術師であるヴェーダ祭官だったのです。インド思想史とはあまり関係のない話題をここで付け加えておきます。何度か引用した『金枝篇』は、今でも結構引き合いに出されます。ハリウッド映画の傑
作、フランシス・コッポラの「地獄の黙示録」のイメージ作りにも使われたそうです。カーツ大佐の愛読書の1つとして登場するので、ご存じの方も多いでしょう。
 

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