仏教余話
その196
しかし、仏教で概して評判のよい、この「無記」「沈黙」について、ライヴァル学派のジャイナ教の取った態度を見ておくのも面白い。谷川泰教氏は、詳しく、こう述べている。
仏陀が答えず沈黙した問いに「世界は常住であるか無常であるか、有限であるか無限であるか云々」があった。このような問いにジャイナ教はどう対処したか。幸い『アーヤーランガ』(一・八・一)にそれにふれた一節が残っている。
世界は存在するかしないか、世界は常住なのか常住でないのか、世界は有始なもか無 始なのか…このように互いに対立し自説を主張しあっている。これは論理的でないと知りなさい。このように彼らの教えは正しいものではない。世尊[ジャイナ教の開祖](マハーヴィーラ)によって説かれたように答えるか、さもなくば沈黙を守りなさい。
この中で沈黙を守るというのは仏陀の立場に通じるものとして興味を引くが、世尊が説いたようにとは何を意味するか、これについて確かなことはわからない。しかし次の例はその一つの解答の試みにはならないか。『ヴィヤーハパンナッティ』(二・一)は同様の問いに対して相対主義に立つ解答を行う。
世界は有限であるか無限であるか。〔霊魂・成就・成就者についても繰り返す〕世界は〈実体的には〉有限、〈場所的には〉有限、〈時間的には〉無限、〈情態的には〉無限である。〔霊魂以下についても繰り返す〕
一つの対象について複数(この場合四つ)の視点を用意して相対的に判断する仕方は、〈スヤード・ヴァーダ〉と変わるものではない。〈ある点からすれば〉(syad)が具体的に挙げられたということである。…[ジャイナ教の開祖、マハーヴィーラ] かれはこうして不可知論と無記説とを避け得たと言えるであろう。…総じてかれは個々の自然現象を分析観察して、知識を総合する素質の豊かな人であったことを聖典の記述は証明している。業と解脱の独特のメカニズムや相対主義はその現れであろう。その点、瞑想的哲学的な仏陀とは性格を異にする。(谷川泰教「原始ジャイナ教」『岩波講座 東洋思想 第5巻 インド思想 1』1988,pp.81-83,[ ]内私の補足)
どんなイメージを持っただろうか?徒に、仏教を礼賛することは、注意せねばならないことは知られたであろう。