「倶舎論」をめぐって

XLIII
さて、これまでは、『倶舎論』の優れた部分のみに焦点を与えてきたが、思わず首を傾げたくなる不思議な議論もある。『倶舎論』第1章「界品」dhatu-nirdesaには、「何故、人間の鼻腔や眼球は1つではなく2つなのか?」という問いかけがある。これに対し、世親(Vasubandhu)は、「美しさ(sobha,mdzed bya)のため」と、答える。何とも、納得のいかない返答である。櫻部建博士も指摘しているが、更におかしなことに、世親に異論を唱えた衆賢の説を、玄奘も真諦も訳文中に付加しているのである。長くなるので、玄奘訳のみに触れておく。
 この解釈は正しくない。もし、元々〔眼・耳が1つ〕そうであるなら、誰が醜いなどというだろうか。また、猫やほととぎす等にとっては、2つの拠り所であっても何の美しさがあるだろうか。そうならば、〔眼・耳・鼻〕の3器官は、どのような理由で2つ生じたのか。起こった認識が、明瞭で美しいからである。現に、世間では片方の眼等を閉じて、色を見ると、鮮明ではないことが経験されている。故に、3器官は夫々2つ生じるのである。

 此釋不然。若本來爾誰言醜陋。又猫鵑鵄等雖生二處有何端嚴。若爾三根何縁生二。爲所發識明了端巖。現見世間閉一目等了別色等便不分明。是故三根各生二處。」(大正新修大蔵経、No.1558,p.4c/7-10、佐伯旭雅『冠導阿毘達磨倶舎論』I、平成5年rep.of 昭和53年、p.29,ll.7-10)
世親説の「美しさ」という解釈は影を潜め、「鮮明な認識」という衆賢説に肩入れしているようである。このように、現代人からすれば、何の意味があるのかと訝るような議論もある。次に、『倶舎論』の諸注釈に触れよう。

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