Tips of Buddhism

No.47
The Vatsiputriyas,who profess to be followes of the Buddha,do strongly postulate the existence of the self under the name of pudgala(the principle of
individuality),which they affirms as neither identical with,nor different from,the
psychical aggregates called skandhas.( S.Mookerjee;The Buddhist Philosophy of Universal Flux,Delhi,1975,rep.of 1935,p.185,ll.1-5)(Vatsiputriya「犢子部(とくしぶ)」)

(訳)
犢子部(とくしぶ)は、仏教徒であると告白しているが、プドガラ(個人原理)の名の下で、我の存在を、強く、打ち立てる。それらは、蘊と呼ばれる精神的集合体と同じでもないし、異なるのでもいものである(非卽非離)と主張する。
(解説)
ムケルジーという大学者の著書からの引用である。ここで、登場する犢子部は、仏教内で、異端(いたん)中の異端とされた。彼らの説くプドガラが、外道のアートマン(我)と見なされたからである。彼らは、人間を構成する5要素(五蘊)だけでは、輪廻や業の問題は処理仕切れないと考え、輪廻や業の主体となるプドガラを要請(ようせい)したのである。犢子部は、実は、説一切有部とも関係が深い部派である。多くの部派が存在したが、その実態は未だ把握されていない。
 先に見た、有力部派の説一切有部にも色々な派閥(はばつ)があって、主張は一様ではない。まして、他の部派の思想は、全くの闇の中にあると言っても過言ではない。説一切有部の最上の論書と評される、世親(Vasubandhu、ヴァスバンドゥ)の『倶舎論(くしゃろん)』Abhidharmakosa(アビダルマコーシャ)第9章「破(は)我品(がほん)」では、徹底的に批判された。
その後に、8世頃著された『真理(しんり)綱要(こうよう)』Tattvasamgraha等でも、強い批判を浴びる。しかし、異端の烙印(らくいん)は、見直すべき時期にきている。
 尚、『倶舎論』第9章「破我品」の訳注研究は、数多いが、代表的なものは、以下の通りである。
1.櫻部建「破我品の研究」『大谷大学研究年報』12,1960。
2. 櫻部建「倶舎論における我論―破我品の所説」中村元編『自我と無我―インド思想と仏教の根本問題』。
3.舟橋一哉「称友造阿毘達磨倶舎論明瞭義釈 破我品―梵文の和訳と註と梵文テキストの正誤訂正表―」『大谷大学研究年報』15,1963。
4.村上真完「人格主体論(霊魂論)-倶舎論破我品訳註(一)」『塚本啓祥教授還暦記念論文集:知の邂逅―仏教と科学』1993、同「人格主体論(霊魂論)-倶舎論破我品訳註(二)」『渡邊文麿博士追悼記念論集 原始仏教と大乗仏教』下。
また、『真理綱要』の研究には、内藤昭文「TSPにおけるアートマン説批判(II)―プドガラ説
をめぐって(1)―」『印度学仏教学研究』30-1、昭和59年、pp.140-141,同「TSPにおけるアートマン説批判(II)―プドガラ説をめぐって(2)―」『仏教学研究』41,昭和60年、pp.20-51がある。チベット仏教の大学者チャンキャ(lCang skya, 1717-86)の『宗義書』(grub mtha’)毘婆沙師」章は、犢子部等の部派仏教を激しく批判し、こう述べている。
この〔犢子部という〕流派(lugs)によって、人格は自立(rang skya)を得た実体であると主張されていることは明らかに成立するのである。
このように、犢子部を中心とした研究は、過去の業績が整い、未知の資料も多い。やりがいのある研究であろう。


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