仏教余話

その53
宇井伯寿の教え子の1人であろう、前東北大学教授の金倉圓照博士は、「宇井先生の業績」と題する追悼文を寄せている。簡潔にして、美しい文章である。今の学生には、最早、遠い先達かもしれないが、その名を記憶してもらうためにも、以下に、金倉博士の文を紹介しておこう。
 七月十四日に宇井伯壽先生は急逝せられたが、二日ほど以前に、私は先生におめにかかってよもやまのお話を承った。その時、先生はなかなかお元気で、ちかく急変がおころうなどとは、夢にも思わなかった。お話の中にドイツに留学された思い出があった。先生の師事されたがルベ教授が第一次世界大戦で一人むすこをうしなったこと、美しい東洋風の娘がガルベにあったこと、ゲッティンゲンの散歩道で、教授にひょっこり行きあわれた折りの挿話などである。五十年前の楽しい追憶に、先生はしばらく耽られたのである。一九一三年、先生はドイツに留学された。ほどなく第一次大戦が起こった。多くの留学生は、それを潮に日本に引きあげたが、先生はひとり戦争をイギリスにさけ、引きつづき三年間在留して「十句義論」の英訳と研究を完成された。この業績は、先生の名を世界のインド学界に高らしめる基となったのである。先生は最初、仏教以外のインド思想の研究に、力をつくされた。名著『印度哲学研究』十二巻の前半に、その成果がおさめられている。一九二三年東北大学に法文学部が創立せられ、先生は印度学の初代教授として赴任せられたが、それ以後、先生の研究は、次第に仏教の方面に傾くようになった。まず原始仏教についての精細な論文を続々公表し、原始仏教から根本仏教を区別して討究する必要を唱えられた。そして仏滅年代について、独自の新しい見解を主張せられた。原始仏教の研究が一段落に達すると、討究の鋒は、大乗仏教へ向かった。その範囲はインドはもとより、シナ、日本にまで及ぶものである。シナの仏教を理解しなくては、インド仏教の意味はわからない、というのが、先生の持論であった。大乗仏教の中で、最初は空観を研究された。しかし後には瑜伽唯識のそれへと移っていかれた。ミロク、無着、世親の研究は、晩年先生が最も力を注がれた部門で、先人未踏の分野を広く開拓された。そして、従来架空の人物とされたミロクの実在を論証することに努め、次第に学界でも、賛成者が現れるに至った。また、つとにチベット語経典の重要性を認め、その研究の鍵となるべき大著述をのこされたことも、先生の先見の明を示すものといえよう。先生のおびただしい業績の意味を、限られた紙幅にのべつくすことは、到底不可能である。ただ最後に一言つけ加えたいのは、りっぱな弟子をたくさん養成せられたことである。日本のインド学仏教学界から、先生の教えを受けた人々を取り去ったとすれば、そのさびしさは、思い半ばに過ぎるものがあろう。先生は今やすでにない。しかし、その偉大な業績と、一事もゆるがせにしない堅実な方法とは、ながく学徒の指南として、彼らの行く手を照らすであろう。(金倉圓照「宇井先生の業績」『インド哲学から仏教へ』1976所収、pp.553-554)
弟子の追悼文であるから、当然、賛嘆の言葉で満たされているが、宇井伯寿の業績が偉大なものであり、中村元をはじめとするインド研究者に道筋を与えたことは、間違いないのである。

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