新チベット仏教史ー自己流ー

その2
まずは、山口(やまぐち)瑞(ずい)鳳(ほう)氏の名著『チベット』下から、引用し、経緯を確認しておきましょう。
 八四三年の吐蕃王家の分裂後、仏教の国家的規制がなくなると、従来禁止されていたタントラ仏教がしだいに勢力を得て、中国仏教、とくに南宗(なんしゅう)系(けい)の本覚思想にもとづく「大究境(だいくきょう)」(ゾクチェン)の禅や、それまで押さえ込まれていたポン教も復活して、たがいに影響しあってこの国の下層の民衆の間に広まっていった。後のポン教はタントラ仏教や禅宗の影響を受けて「ギュルポン」〔混淆(こんこう)主義的ポン教〕と呼ばれたように、〔チベットの翻訳僧〕カワ・ペルチェックやニンマ派の言うような九乗の〔各教説の優劣を判定する〕教相判釈(きょうそうはんじゃく)を行って「大究境」の主張まで伝えた。ニンマ派のほうは民間信仰をとりこみ、在来の神々を護法(ごほう)神(しん)として祀り、一方では古い型のタントラ仏教によって性瑜伽(せいゆが)を説き、呪殺(じゅさつ)の儀式をはびこらせると同時に、「大究境」系の教義も他方では伝えた。今日も伝えられる降(こう)神術(しんじゅつ)による神託(しんたく)もこの派の掌中(しょうちゅう)にあるが、正確には一宗派というより、仏教系の生き残った諸教義を伝える者たちを一括(いっかつ)してこの名を冠したと言うほうがよいのかもしれない。仏教そのものは、このような混(こん)然(ぜん)とした状態のなかで民間にしだいに深く浸透(しんとう)して、一世紀以上の間にチベット仏教の本当の基盤をつくりあげていった。この間に外来宗教の匂いは消えて、本来この土地のものであるかのように根を張ったのである。ただ、正統派の仏教がこの時期には基盤を失っていたのであって、それが俗化し、堕落(だらく)したかたちで今日のチベット仏教に伝えられているわけではない。性瑜伽や呪殺、それに「大究境」の修道無用論に対する反発がまじめな信徒の間に戒律(かいりつ)復興(ふっこう)運動(うんどう)を起こし、各地に僧伽(サンガ)をよみがえらせてようやく本格的な仏教が再興したとき、〔チベット仏教の代表格である〕ドムトゥンの努力でアティーシャが中央チベットに招かれた。(山口瑞鳳『チベット』下、1988年、pp.225-226、ルビ・〔 〕内ほぼ私)


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