仏教余話
その107
ところで、この『解深密経』に対する評価は、様々である。唯識の基本聖典であれば、評判はよいに決まっているなどと考えると、とんだ間違いである。もっとも、好意的な評価がほとんどで、否定的発言は少ない。その少ない方を、紹介しておこう。袴谷憲昭氏は、自身が唯識の専門家であるが故に、却って、『解深密経』の欺瞞性がわかるのか、次のような厳しい裁定を下している。
『解深密経』(Samdhunirmocana-sutra)の登場はインド仏教思想史の展開の上に画期的な意味を持つ。正真正銘の解釈学(Hermaneitik,hermsneutics)を始めて明確な意識をもってその思想史に提供したのがこの経典だからである。本書で取り上げるこの『解深密経』中の二章、すなわち「一切法相品」と「無自性相品」とは、その解釈学中でも白眉をなす。とりわけ後者は、「三転法輪」という、仏教の経典の展開を三段階に区分する方法によって、自らの思想的立場を表明したものとして有名である。…『解深密経』が
自ら最終的了義経〔完結した意味を説く経〕であるとの自覚をもって現れた時に、これ以前に確固としてすでに存在し、その名声ゆえにそれに対して明らかな対抗意識を燃やしながらも、否定しきれずに換骨奪胎する方向で生かさざるをえなかった経典こそ『般若経』にほかならない。言い換えれば、『解深密経』は、自らが大乗経典の白眉とも認められた『般若経』の後に登場したという事実に訴えることによって、『般若経』を相対的に未了義〔未完成の意味を説く経〕の位置に落としめ、『般若経』の「秘匿の開示」〔=
解深密〕を行うという解釈学の樹立を企てて、自分の方が生き残ろうとした経典だと見做すことができるのである。(袴谷憲昭『唯識の解釈学『解深密経』を読む』1994,pp.5-14、〔 〕内私の補足)
『解深密経』が登場した理由、唯識派がそれをどのように活用したのかが、指摘されている。昨今、取り分け評判のよい唯識だからといって、両手を挙げて賛成とはいかないのである。皆さんには、こういう批判的な視点を、忘れないでもらいたい。