仏教余話
その205
サーンキャと仏教との関わりを中心とした様々なことは、後日、別な角度から追ってみよう。インドの宗教全般に詳しい奈良康明博士のスケッチも、先ほどの袴谷氏の発言とも関わるので、紹介してみよう。
インド最古の文献たるヴェーダ以来、ヒンドゥー教は「真理は一つ。それを賢者はさまざまに説く」という不動の信念を伝承して来ている。真理とは「サティヤ」(satya)であり存在を示すbe動詞satに由来する。存在の本源が「真実」なのであり、この点、ユダヤ教、キリスト教のヤーヴェー、エホバと一脈の類似がある。つまりブッダの悟った真実であれ、キリストに啓示された真実であれ、すべての真実は同一であり、それを各人の状況に応じて異なる説き方をした、と考えるのである。筆者はこの見解には全面的には賛成しかねるのだが、事実として、インドではこの信念が広く受容されている。しかも現代インドの人には、特にヒンドゥー教の改革者ラーマクリシュナ(一八三四―一八八六)の発言が大きなささえとなっている。彼はきわめて神秘主義的な宗教体験の素質に富み、カーリー女神を信じ、愛し、奉仕し、思念してこの女神を目のあたりに見る体験をえた。以後、何回も同様の体験をするのだが、キリスト教やイースラム教の修行をもして、それぞれの神、アラーを感得したという。この体験の上に、先述の伝承を自らに確信し、証明し、いずれの宗教も究極は同じであることを述べている。近代インドに積極的奉仕活動を展開しているラーマクリシュナ・ミッションの開祖の言葉なだけに、全ヒンドゥーに与えた影響は大きい。非暴力を唱え、これは真実把握の運動であると主張したマハトマ・ガンディーも同様な発言をしている。(奈良康明「現代インドの民衆と仏教」『現代思想 臨時増刊 総特集 インド文化圏への視点』1977,vol.5-14,p.195)
また、インド仏教史を、冷静な筆致で綴った、桂紹隆博士の見解も、インド仏教を見直すという意味で、参考になるだろう。桂博士は、こう述べている。
かつて、末木文美士は今日の日本仏教を理解する視点として、「無我の立場をとる考え方」と「霊魂を認めていき立場」とがある、と論じているが、この二つの立場の起源は、〔アートマンと酷似した存在を容認する〕プドガラ論者が登場して、おそらくインド仏教史上最初の本格的な教義論争が起こったときに遡るのではないだろうか。最初期の仏教に関する限り、ブッダはアートマンがあるのでもなくないのでもない、という「無記」の立場を取ったと考えられる。その伝統は龍樹や世親という代表的な仏教学者によっても維持されていた。しかし、部派仏教時代に入って、人格主体の有無が論争されるようになると、仏教内部に厳格な無我説をとる伝統と何らかの人格主体の存在を認める伝統とが、互いに論争しながらも共存していたのであろう。この対立関係がインド仏教史の大きな枠組みを形成した、と筆者は考えるものである。したがって、単に無我説だけが「仏説」であるという主張を承認するものではない。最後に、一言付け加えるならば、大乗仏教は伝統や環境と無縁に、インドに突然変異的に登場したものではない。大乗仏教徒の思想的営みは、初期仏教の経典や部派仏教の論書、そしてバラモン教の宗教儀礼や宗教・哲学思想と対比して、これらの歴史的コンテクストにおいて理解されなければならない。(桂紹隆「インド仏教思想史における大乗仏教―無と有の対論」『シリーズ大乗仏教1 大乗仏教とは何か』2011所収、pp.283-284 )
巧みな物言いで、相変わらず、整理上手だ。全く、異論を差し挟む余地などないように見える。しかし、桂博士は、実は、何もいっていないのと同じである。仏教には、「何でもあり」といっているに過ぎない。私見ではあるが、ここに横たわる問題は、恐らく、「部分と全体」に集約される。「部分至上主義」が仏教のスローガンではあるが、それは、インドでは、むしろ、異端的である。そうした思考法の相違が、仏教史を貫いているのである。桂
博士のような発言は、問題の核心に触れず、色々な意見をただ整理しているに過ぎない。
過激に聞こえるかもしれないが、現学界にあって、押しも押されもせぬ権威であってみれば、私の批判など、馬耳東風であろう。これは人格批判などではない。あくまでも、意見交換である。皆さんも、気に入らないことがあれば、理屈で批判すれば、何も遠慮することはないと思うので、私の意見も、自由に批評してもらいたい。桂博士が、キーになる課題としてあげているプドガラ論者は、実は、世親の『倶舎論』の第9章「破我品」で、延々と論じられるものである。和訳も完備していて、研究環境はすこぶるよい。私自身、機会があれば、取り上げてみたいと考えているものである。何度も述べたように思うが、『倶舎論』は、仏教研究のベースとして最適であり、それにまつわって、世親思想を探求することは、インド仏教の実態を明らかにする最上の方法である。このことには、何度でも触れたいと思う。
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