Tips of Buddhism
No.78
When the Buddhism was introduced to China,Chinese tended to know the doctrine of Buddhism using the terms of Taoism.For example,’sunya(empty、空)’ of Buddhism was understood by ‘nothing(無)’ of Taoism They say such understandings were corrected by Kumarajiva and his disciple Seng-Zhao.But the connection between Buddhism and Taoism is strong.(My Composition)
(訳)
中国に仏教が導入された頃、仏教の教義は老荘思想を使って理解される傾向にあった。例えば、仏教の「空」は老荘思想の「無」で理解された。鳩摩羅什やその弟子僧肇等が、それを是正したと言われる。しかし、中国では、仏教と老荘思想の結びつきは強い。
(解説)
仏教の老荘風理解を、格(かく)義(ぎ)仏教(ぶっきょう)と言う。一般的に、誤った仏教理解と見なされているが、中国側からすれば、当然の処置であろう。既に確固とした文化・宗教・伝統が存在している中に、異国の考え方が入って来るのである。その思想が理解し難い場合、自国にある思想を利用するのは、むしろ、自国の文化を誇ってよいことだとさえ思える。
中国仏教の中でも、禅はその華と賛美されている。インド風の仏教思想を中国風に改正したと考えられている。その評価は微妙であろう。
なぜなら、一般的に中国人は実践的・世俗的なものを愛し、仙人という理想の人間像も、つまるところ、この世の延長でしかない。興味の対象は、金であり、不老長寿である。禅の理想も多分に世俗手要素があると考えても不思議ではないからである。
しかるに、インドでは、実践・世俗は捨てるべきもので、本当の価値はないとされる。彼らは、この世と離れ、1人、宗教的・哲学的境地に入ることを願う。もちろん、インドでも、人生の目標を、arths(アルタ)金・kama(カーマ)愛欲、dharma(ダルマ)社会規範としている。しかし、それとは別にmoksa(モークシャ)解脱こそ最上の目的と考える。ここに両国の差異を意識すべきである。
1例を挙げてみよう。中国では言行録、史書の類はすさまじい量である。しかるに、インド人は記録に類するものをほぼ残さない。現世に対する価値観の違いである。
この中国仏教とインド仏教が、チベットで優劣を競い、ついに王様の前で論争したとされる。結果、インド側が勝利し、チベットの国教となった。とはいえ、公式にはインド仏教を受け入れたが、中国仏教の影響がチベットから消え去ることはなかった。チベットでは、公には中国仏教を異端とするが、仏教史書を多数作ったり、教理的な影響も消えることはなかった。中国的な影は常にあったのである。
最近は少ないが、チベット仏教と禅の結びつきに注目する研究もあった。チベット文献から、漢訳文献が明確になるというケースも報告されている。ということは、禅研究は、漢訳文献ばかりに重きを置くだけでは広がりは狭いと言わざるを得ない。
我々は、ともすれば、日本仏教という身近なものから、あれこれ類推するけれど、同じ仏教といっても全く質の異なることを頭に入れておく必要はあろう。