仏教豆知識

その5
最後に長い文章ですが、このシカゴでの宗教会議を、今こそ見直すべきであるとする意見を紹介しておきましょう。
 9.11からちょうど一年後のニューヨークだった。追悼式が行われているグランド・ゼロの付近では、犠牲者の名前が読み上げられるその声が強風にあおられて、遠く、近くに切れ切れに聞こえていた。その風に舞っていたハンドアウトのビラを手にすると、大きな文字で「神は私たちを見捨てたのか?」とあった。数人のグループが、風にとばされないようにと重しを置いて路上に積んだビラの山から、ひと束をつかみ取っては、道行く人のだれかれに手渡ししていた。ビラの大文字のあとに次の文句が続く。「違う!神は私たちをなによりも愛しておられる」。これと似通った文面のビラは事件の直後からたびたび配られた。「西欧社会に対する最大のテロ行為」という9.11の事実であり、アフガニスタンへの報復攻撃、さらにイラク侵攻へと連動していった動乱の出発点としての9.11である。アメリカが一枚岩となってイラク攻撃へと雪崩を打って進む様子にのみこまれ、いつのまにか私たちはアメリカのキリスト教がゆるぎのないものであると、当然視してしまっている。たしかにこれは正確とはいえないだろう。しかしキリスト教側の一部に、このビラが配られるほどに、「この惨劇を体験した人々が神から見放されたと思い、神の真意を疑い、さらには神の存在をも疑い始める人々がいる」と想定した危機感があることは、意外だった。もちろん大規模な災害の後に布教を活発化するのが宗教の常」であることは知っている。しかし9.11は人間による明確な敵意の表明であり、アメリカが国を挙げて報復行為を行いつつあるときに、その勇ましさの裏側で「神がアメリカを、我々を見捨てたのかもしれない」、という信仰の揺らぎを懸念するとはどういうことなのだろうか。アメリカのキリスト教の基礎が疑いを挟む余地がないほどに堅牢とはいえないことを示しているのだろうか。アメリカ人の信仰は建国前も英国で試されてきたものであり、建国後もいくつもの戦争を経て常に試されてきた。しかし21世紀に一歩踏み入れた現代に至るまでも「異教徒の攻撃」によるキリスト教信仰喪失への危機感があるとすれば、それはどこに由来するのだろうか。その数ヶ月後のもう一つのシーンは、また別の意味で印象的だった。世界一の聖堂の大きさを誇るセント・ジョン・ザ・デヴァイン教会の大聖堂の12月のある日曜日のミサのことだった。世界最大の聖堂といわれている巨大な教会での500人近い参加者を迎えたミサでは、途中、マンハッタンのイスラム・センターから特別に招待したイマーンの講和が入った。エキュメニカル〔自由〕な活動で知られているこのピスコパルの教会は、数ヶ月おきに仏教やユダヤ教の宗教者を招いて説教を聞くプログラムがある。そのためそこにイマーンがいるのもとくに不思議な光景ではない。しかし9.11以降では、イスラムの指導者を招くことは、教会も信者も通常とは異なる意志とメッセージがなければできることではない。大聖堂の参列者の間にはある覚悟のような雰囲気が共有されていた。そのうち説教席に立ち上がった小柄で老齢(ろうれい)痩躯(そうく)のイマーンが鋭い声のアラビア語で話し始めた。付き添いが時折イマーンのアラビア語の話を遮って英語に通訳していたが、通訳の強いアクセントの英語は、参列者にとってはほとんど意味がとれなかった。通訳のために区切って話すことにあきらかに慣れていない様子のイマーンは、そのうちに通訳をはさまずに、アラビア語で滔々と語り始めてしまった。甲高いイマーンの声が底冷えのする大聖堂に響き渡るなか、約1時間、厚いコートを着た参列者は身じろぎもせず、堅い椅子にじっと座り続けて、まったく意味不明の言葉の音が頭上から降りかかるにまかせて、頭を垂れていた。私の隣にいた身なりのよい50代後半の夫婦は、それぞれ互いの手を膝の上で握りしめて終始じっと耐えるように目を閉じてうつむいている。このあきれかえるほどの礼儀正しさと沈黙と我慢はいったいどう理解したらいいのだろうか。異教の、しかもその過激派が彼らの主張とは何の関係もない人々、世界貿易センターにいただけの、また4機の飛行機に乗り合わせただけの大勢の普通の人々を犠牲にした。この理不尽な悲劇を経験した人々が、一言もわからないこの説教を受苦するこのシーンは、アメリカの最も誠実な「偽善」、あるいは自己を崩壊させない限界までの「善意」のぎりぎりの表出とでもとらざるをえないような姿だった。この二つの情景は、たしかに「最もアメリカ的であって、もっともアメリカ的ではない」といわれるニューヨークの一隅の出来事である。しかし、9.11からまた別の次元で逃れようもなくアメリカを象徴せざるをえなくなったこの地での出来事は、無視できない意味をもっている。アメリカの原風景にはキリスト教への無垢な信仰、良心、誠実さ、それとともに他の宗教へのアンビバレントな態度と自らの信仰に対する懐疑と執着が常に重なり合いながら、混じり合うことのなく存在している。そもそもキリスト教の様々な教派だけではなく、さらにキリスト教以外の宗教をもキリスト教のもとに包摂(ほうせつ)しようとするキリスト教ユニバーサリズム自体が、キリスト教の絶対的な地位と勝利を前提としながらも、キリスト教の相対化への隠しようのない視座をその表皮のすぐ下に携(たずさ)えているのである。これらの絶対と相対の間での動揺や価値の揺らぎは、ヨーロッパがキリスト教化されるときに制圧されたそれ以前の信仰とキリスト教とのあいだに生じ、また度重(たびかさ)なるイスラムとの対立や、16世紀からの植民地主義で遭遇(そうぐう)した非ヨーロッパの地の宗教との間でも、繰り返し問われてきた。近代的啓蒙(けいもう)主義においても、その背景にはキリスト教的世界観による絶対的な自己肯定があり、それはキリスト教に対する揺らぎももたらした。しかしこの新しい近代啓蒙主義の時代がもたらした揺らぎは、キリスト教が教理と実践のうちに本質的に培(つちか)ってきたこれまでの揺らぎにまた新しい特徴を加えるものであり、これまでとは異質な文脈にたつものだった。その一つは「科学」の導入による宗教の「対象化/物象化」である。近代的啓蒙主義が理性と科学性を追求するほどに、キリスト教に対しての揺らぎも生じてくる。そしてキリスト教以外の宗教を「科学」の対象として研究し理解しようとする方向性は、次第にキリスト教だけをその対象に含めないでいることを難しくさせていった。その二つめは、こうした揺らぎが中産階級や知識階級に広がり、大衆の知るところとなっていったことである。揺らぎに大衆化の兆しがでてきたともいえる。啓蒙主義は科学的学問の追求精神を生み、キリスト教のなかでも啓蒙主義に影響をうけた信者や聖職者さらに宗教学者が他の宗教の研究およびそれらとキリスト教との比較を行うようになった。とくに19世紀半ばから、中産階級に生まれつつあった知識階級による学問の大衆化の始動や、大衆に対しての生活改善や風紀(ふうき)・道徳粛清(しゅくせい)と手を携(たずさ)えた布教活動の活発化が進んでいったことの影響は大きい。第三は、揺らぎの公共化である。例えば、19世紀後半のセイロンで頻繁(ひんぱん)に行われた仏教僧とキリスト教聖職者の公開討論のように、対立であれ比較であれ、キリスト教と異宗教との対峙が公衆のまえで目に見える形で示される機会が生じてきた。また、海を越えた移動が知識階級に可能になり、新分野印刷物等のメディアの発達にも助けられてその見聞の機会の公共化が進んだ。セイロンでの公開討論での僧侶の勝利は、すぐにイギリスやアメリカの新聞で報道されていることなどはその時代の様子をよく伝えている。こうしたことがキリスト教自体を後戻りが出来ない相対化へと導いていったのである。とりわけ、旧弊的なヨーロッパではなく、キリスト教の新天地として新たに歴史に登場したアメリカにとっては、啓蒙思想に導かれた新しいキリスト教の理想像の追求と実現が建国の命題であった。そこではまさにこの、神の真の教えに導かれた新世界の実現という命題が、民主主義というイデオロギーを確固として支え、国家的な侵略・暴力行為すらもこの命題において正当化されてきた。こうした文脈のなかで、キリスト教の本質主義と相対化という同床異夢(どうしょういむ)の本質的問題は、民主主義という政治思想のもとでリベラルと保守の紙(かみ)一重(ひとえ)の近さを内包しながら、アメリカの知識階級や中流階級と言われる人々のあいだに共有され、その議論と実践が繰り返されてきたのである。この図式はアメリカのキリスト教と民主主義の関係を示す一つの原型といっていいだろう。さて、今からちょうど100年あまり前、こうしたキリスト教およびキリスト教的世界観の追求とその結果としてのキリスト教の本質的問題が、ものの見事に世界に提示される歴史的出来事があった。1893年、シカゴ市は近代の産業の技術の成功を世界に示すために万国博覧会を企画した。それに付随する企画として催された世界初の「万国宗教大会(The World’s Congress of Religion)」は、近代宗教のランドマークともいうべき出来事だった。シカゴの郊外に新しく設置された万国博覧会の会議は、ホワイト・シティと名づけられた。さながらすぐそこに来ている20世紀を象徴するような当時の技術の粋(すい)を集めた展示場が立ち並んだ様は、新しいイエルサレム、聖都ともよばれた。シカゴの万国博覧会は、コロンブスが新大陸を発見した500年を記念するものでもあり、新大陸での西欧文明とキリスト教の勝利をうたい、かさねて数年前の大災害で街の殆(ほとん)どを焼失したシカゴの見事な復活を祝うものでもあった。この機会に応じて、キリスト教側から世界の宗教を一同に会したのあいだ万国宗教会議の企画がもちあがった。そして1893年、5月1日から半年に及んで開催された万国博覧会の期間中に、8月27日から10月15日の間、「万国宗教大会」が同時に開催されることになった。キリスト教の各教派およびキリスト教以外の200有余名の宗教者が世界から参加した。参加した宗教代表は、コロンビア・カトリック、ルター派教会、メソジスト・エピスコパル、改革エピスコパル、ユニバーサリスト教会、ユニタリアン教会、フレンド教会、エバンジェリカンなどキリスト教の教派や、ユダヤ教のほか、ヒンドゥー教、イスラム教、拝火(はいか)教、仏教、神道、道教などの世界の主要な宗教のほとんどにわたり、さらにネイティヴ・アメリカンの宗教者も加わった。この万国宗教大会は万国博覧会同様に一般に公開された。宗教や教派に分かれて行われた代表者会議(congress)は41を数えた。なかでも、9月に17日間にわたって行われた「万国宗教会議(The world’s parliament of religion)」では各宗派の代表が一同に会し、のべ15万人の観衆を動員したと言われるほど大変な活況を呈した。そこでは学術的報告のほかにメッセージや詩など様々なスタイルがあった。その万国宗教会議の記念撮影の写真一枚をみるだけでも、当時の会場の熱気と覇気(はき)が伝わってくる。200人もの世界の宗教者の眼力の鋭さと聖職者のコスチュームのあでやかさに世界の精神世界という視覚的表象が見事に凝縮されている。万国博覧会が西欧文明における物質的な勝利をうたうならば、まさにこの大成功をおさめた万国宗教会議は規格車の意図どうりに精神世界の勝利を記念するものといえよう。しかし、付け加えなければいけないことは、この成功がキリスト教の勝利をうたうこととは一致しなかったことである。会期中にもっとも人気を博したのは、キリスト教の代表ではなく、インドから参加したヒンドゥー教のスワーミー・ウィウェーカナンダであり、スリランカから参加した仏教のアナガーリカ・ダルマパーラ、日本からの釈宗演らであった。彼らの演説はどのキリスト教側からの演説よりも絶大な人気を集め、高いモラルと倫理、説得力のある論理性と鮮やかな弁舌で会場に集まった人々を魅了した。会議に参加したある女性は会議が終わっても興奮がさめないまま、会議でえたインスピレーションをうたった詩を新聞に投稿した。そこには「真のキリスト教徒になるには、まず仏教徒にならなければならない」という驚くような一行を残している(Ziolkowski 1993;17)。このことが、開明的な知識人であったキリスト教の聴衆のあいだでの万国宗教会議の反響がどのような性質のものであったかをなによりも物語っている。…冒頭でその一部にふれたが、会議から一世紀を経た現代のアメリカの風景にもどってみよう。一方には仏教をはじめとする多くの非ヨーロッパの宗教がアメリカに根付き、アメリカを発信地とし、そしてアメリカの宗教地図を大きく書き換えていくうねりがある。さらにもう一方では過激なイスラム原理主義者によるアメリカやキリスト教文明世界への攻撃とそれに対するキリスト教側の本質主義的な硬直がある。状況のありあまる重層性と多極性を前にして、単純な二極構造のイメージと行動を押しつける力の動きにたいして、キリスト教の相対性と本質性の間で揺らぐ人々がどれほど持ちこたえることができるのだろうか。知識人や宗教指導者はどのように答えていくのだろうか。一世紀前の万国宗教会議の記録のページを繰りながら、私たちは考えてみたい。世界の人々にとって単なる日付ではなくなってしまった9月11日は、1893年、世界各国からイスラム教や仏教、キリスト教と」多くの宗教者が参集した万国宗教会議の開会式の日でもある。偶然の一致に過度な意味を探るのは慎みたい。しかし、このことは、強く記憶にとどめたい。この事実は、現代のアメリカを、さらにアジアや世界の現状をより深く理解するためには、近代の一世紀を考えるべきであることを無言で示しているように思われてならない。(足羽與志子『復刻版 万国宗教会議 別冊日本語解説』2005,pp.1-14、ルビ・〔 〕私) 
足羽氏の主張は、「9.11を受けて、1世紀前の「万国宗教会議」を見直してみるべき時期にある」ということのようです。


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